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「婚約者・齋藤春香⑲」

 時刻は19時。お店に着いたが、いかにも高級そうな感じだ。
「実はここ、会社の先輩と一度だけ来たお店でさ。その先輩が自分が頑張った時とか、特別な時にだけ来るって話しを聞いてさ。俺もそうしようって決めてて」
「そうなんだ」
嬉しそうに話している彼を見て、私も嬉しくなった。
「まっ、立ち話しもなんだしお店入ろうよ」と彼の一声で店へ入った。扉の向こう側には板前さんが2人立っていて、いかにも「美味しいお寿司作りますよ!」という雰囲気を出していた。
「いらっしゃいませ」
元気よく声を張るというよりかは、落ち着いた感じで挨拶をすると「お好きな席へどうぞ」と案内をされ、私たちは板前さんが立っている場所から少し離れた端の席に座った。店内は、ネタの名前が書いてある札があるものの値段が書かれてなかった。
「すみません、イカとアジをください」と私は迷うことなく慣れた感じで注文をし、板前さんが返事をして、せっせと握り始めた。
「齋藤、こういうところ来たことあるのか?」
「たまに星野さんにこういうお店も連れて行ってもらってたから」
「そうなんだ…」と彼は少し気落ちしたように答える。また水を差すようなことを言ってしまった。もう過去の人なのだ、忘れよう。
「お待たせしました」
イカとアジの握りが目の前に置かれた。ケースから箸を取り出し、早速いただくことにした。まずはイカから。
「うん、美味しい!」
一口で食べられるサイズで、歯ごたえもちょうど良い。文句なしで美味しかった。続けてアジに箸を伸ばし、一口で食べた。
「アジも美味しい!」
脂がのっていて、ネタの大きさ・厚さも私好みでこちらも文句なしで美味しかった。私が食べている横で、坂本君はイカとマグロを食べていた。こちらも満足げな様子で食べている。私は次に何を食べようか悩んでいた。その様子を見た坂本君が私に言った。
「齋藤、ウニ食べてみないか?ここのウニ美味しいんだよ」
「ウニはちょっと…」
あの味と匂いがどうしても好きになれないので、初めて食べた時以来、一度も食べたことがない。いくら高級店とはいえ、ウニはウニ。どれも同じだ。
「美味しいからさ、騙されたと思って食べてみなって」
「そうかな…」
「ここのウニを食べないなんて、人生の半分は損してるぞ」
「でも…」
「すみません。ウニ2つください」
悩んでいた私に構わず、坂本君はウニを注文した。

 少しして、ウニが目の前に置かれた。
「いただきます」
先に手をつけたのは坂本君だった。またも満面の笑みで食べている。私は、ウニとにらめっこをしていた。本当に美味しいのだろうか。いまだに信じられないでいた。
「齋藤、1つでもいいから。食べてみなって。絶対美味しいから」
「うーん…わかった」
彼がそこまで言うのならと思い、箸でウニの軍艦を掴み、恐る恐る口へと運んだ。
「どうだ?」
「…」
「やっぱり、ダメだった?」
「…美味しい!こんなに美味しいウニは初めて!」
「ほらな!やっぱここのウニは美味しいんだって」
驚くほど美味しかった。もしかしたら本当に人生の半分を損していたのかもしれない。まさか人生最後に、新たな発見ができるとは。
「すみません。ウニ4つお願いします!」
「4つって、食べすぎだろ!ここのウニ高いのに…」
さっきまで威勢のよかった坂本君が、急に弱気になった。
「ごめんごめん。急にウニ好きになっちゃって」
「齋藤、わざと頼んだろ。俺の財布が…」
「たくさん頼んで良いって言ったのそっちでしょ」
「そうだけども…」
その姿を見て、私はクスッと笑ってしまった。ちょっと調子に乗りすぎてしまっただろうか。私の目の前にウニが4つ並べられた。さっきまで嫌いだったウニも、今では光輝いて見える。一つ、また一つと箸が進む。
残すは1巻。隣にいる彼が、物欲しそうにこっちを見ていた。
「食べる?」私は意地悪く聞いてみた。
「い…いや全然食べて良いけど」
「本当に良いの?」
「良いよ、食べて」
「ここ逃すと、人生の半分損しちゃうよ?」ダメ押しでもう一度聞いた。
「…最後の1巻欲しいなぁ」その姿は、子どものような可愛く見えた。しかし、私は子どもではない。立派な大人だ。
「仕方ないなー」と言い、彼に渡す。一瞬、嬉しそうな顔をしたのを確認した私は、渡すふりをして自分の口へ運んだ。彼が残念そうな顔をして私のことを恨めしそうに見ている。とどめを刺すことに成功したのだが、なんだか悪いことをしてしまったなと内心思った。しかし、「まあいっか」という言葉の凶器で片付けた。
すると彼は私の行動に感化されたのか、手を挙げて「すみません!ウニ一つください!」と元気よくウニを注文したのであった。

                        →次回、最終回に続く

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