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役割演技かありのままの自分か

ありのままの自分を出してしまっては不味いのではないか。ありのままの自分を出してしまっては不味いことを自分は知っている。自分は二重化された存在を生きているからだ。その二重化された言語を書き取るということを少ししてみたい。

私は自分のことを次のように書けます。ここで工夫して二重化された方の言葉を取り消し線で表現します。
私は次のように書く。私はある意味でトランスジェンダーだ。私はもっとしたいことがある。それは現世においてできることだ。ここで言葉を書くのをやめたいと思います。
少し危険がありました。もう少しします。私は世界的には自分のことを愛しているかは分からないけど、それを続けることができました。

私の意識の経路はこのようになっています。私自身意識の経路が複数化されているので、本当は自分という私という単位は複数のものです。そうした複数の意識のいわば「もの」のようなものを感じていることから、私の言葉には何らかの影響が出ていました。
私の言葉を読んで少し具合が悪くなった人がいたら申し訳ありません。
私はそのことをどう普通の人に伝わるように伝えられるかを考えています。

私はある意味では意識が前の意識と後ろの意識に分割されています。
前の意識の言葉を少し書いてみます。:私は今日は元気です。私はいつもは元気だけど、今日は少し体調が悪いかな。明日はまた仕事に行かなきゃ。ああ、辛い。
後ろの意識の言葉を少し書いてみます。:私は本当は世界的には変態かもしれません。変態かもしれません。でも、それは普通の意味においてです。私はレズビアニズムに傾倒しているところがあり、その影響があります。どうか私のことを特異な目で見ないでください。私は特異な人ではありません。少し性的にマイノリティなだけです。私は女性が好きです。最近だとcitrusを読むことにハマっています。レズビアンの欲望って社会的にどういう風に表現されるんだろう。社会的にレズビアンになりたい。私は言語を使って何かを伝えているけど、その言語を使っての言葉って伝わりますか。あと、ブサイクでごめんなさい。

私は『ありのままの私』という本を取り上げたことがありましたが、ありのままの自分で生きることに少し葛藤があります。

私は何らかの役割を演技した方が良いのか。
仕事の関係でLINEすることがあり、ありのままの自分では行けないと思うことがあり、そこで役割演技とかを考えるようになりました。
それは最近の本だとアーヴィング・ゴフマンの『日常生活における自己呈示』とかが関係していると思います。

ありのままの自分を出すといわゆる「裏アカに書いとけよ」的なことばかり積み重ねられていってしまう。私は心に弱いところがあり、どうしても表と裏ができてしまいます。
でもアーヴィング・ゴフマンの理論からすると、表局域と裏局域ができること自体は普通のことなんですよね。

だから「ありのままの自分」一元論で行くのはこのゴフマンの理論に反論してからでないと難しいのではないかと思います。
私はそのように感じていますが、でもそれが受け入れられるかは分かりません。安富さんの本も未読なので、『読んでいない本について堂々と語る方法』の内容を引き受けない限りは、その本について語ってはいけないはずです。

私は自分の頭の中がこんがらがっているところがありますので、私の言葉が伝わるかは分かりませんが、私は最近読んだ記事で「心を病むトランスジェンダーの子どもが増加 社会が求める男女区分に過度に適応しようと苦しむ」という記事が頭に残りました。

私はトランスかは分かりませんが、心を病んでいたところはあります。
また、先ほどの表局域/裏局域の話で言うと、私から表が喪失されていたところも問題だと思っています。
どこでもいわば「裏の自分」で行ったらある意味で楽かもしれないですが、人間との葛藤は増えます。
なので、人と例えばLINEのトークルームで話す向けの分人で言うのを作って、「表の自分」を運用するのが良いかなと思い始めました。
そこには解離の問題もあります。実際裏の人格に等しいような人格というのも存在しているので、その人格が表の場面で出ないように気をつけたいと思います。
私は見た目的には良くないのは分かっていますが、ちなみに自分自身は男子高校生だったと自負していますが、この映画は参考になるかもしれません。

実際に解離の症状を抱えた人が描かれています。解離する場面を見ると、自分も客観的にそう見えているのかもしれないなと思います。
解離する障害を抱えているとすると、自分は就ける仕事も限定されていると思います。
私は今仕事をしていますが、その仕事はきちんと責任を持って果たそうと思います。
私は最近百合の漫画も読んでいます。citrusです。

メタバースにハマりそうになる自分もいますが、(本当に投資はしていません)そこでは自分の現実の制約から解放されて思うがままに書けるからかなと思います。そんな簡単に現実の制約から解放されないのが普通のはずなんですが…。
すみません、今回はこんな感じです。

『頭のいい人が話す前に考えていること』を読み、自分も感覚的に思ったことを言うのではなくて、話す前にしっかり熟考してから言葉にしようと思いました。
そうすると、日常生活において人との葛藤の少ない「表の自分」で居られるかなと思います。
性格が悪くてごめんなさい。

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