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月とウミガメ[短編小説]

 調子の悪いラジオがノイズを発する。幼馴染が「中に死にかけの蝉を飼っているみたいだ」と笑って、なんとなくその言葉が好きで買い替えなかった。今は、もう壊したくて仕方がない。
 簡素な二段ベッドに大体埋め尽くされた部屋は、電気もつけていないので、変に緑っぽくて薄暗い。もうすぐすれば、朝日が昇りきってマシになるだろう。同居人はまったく片づけない性質で、多分今踏んだ迷彩服はあいつのだ。
 今はただじっとしておきたかった。背を丸めてベッドサイドに腰かけ、無気力な膝を見つめる。足にはほとんど力が入らないのに、その上に落とした拳ばかりが震えていた。
 あいつは、幼馴染は、同居人は。
 腹立たしいのか悔しいのか、ただ実感もしていないだけなのか。さっきから頭の中を占める男の頭をはたいてやりたい。見た目だけは、根暗っぽい男だ。長い前髪を真ん中で分けた黒髪の男。髪を切るのが億劫で、俺たちの上司に似てしまったその髪型に二人で笑ったのは最近だったはずだ。目つきの悪い一重の眦を緩ませて、「ははは」と全く朗らかに笑う声が、耳の奥にまだ残っている。眠ってみようか。そうしたら忘れられるだろうか。何もなかったことにならないか。あわよくば、昨日の夜まで戻ってくれないだろうか。
 硬直した体をゆっくりと伸ばして、後ろに倒れこむ。自分のベッドは上なのだが、もう関係ないだろう。枕を借りると、三日前にあいつが溢したコーヒーの臭いがした。変に硬くて、手で押すと何か入っているようだ。あいつが枕に忍ばせるなんて、お気に入りのアーティストの歌詞カードぐらいだが。
 いや、そう思っていただけなのか。
 出てきたのはボイスレコーダーだった。
「うらぎりもの」
 数時間ぶりに出した声は随分掠れていた。寝ころがったまま腕を伸ばしてラジオの電源を切る。するとラジオの方から、例の死んだと思った蝉が喧しく飛びたてたような音がして、咄嗟に手で払って床に叩きつけた。先週もこんな具合に目覚まし時計を壊した気がする。じくじくと痺れた指先を振って、一人大げさにため息を吐いた。体を支えていた肘が崩れ落ちて、背中は再びシーツと仲良くくっついた。
 ラジオの騒音は生憎、手の中のボイスレコーダーを忘れさせてはくれなかった。こういうのって、パソコンとか、いるのだろうか。よくわからない。しかし、あいつは持っていなかった気がする。枕の中を探ると専用っぽい有線イヤホンが出てきて、一体あいつは隠す気があったのかと少し笑えた。だって枕の中って、いくらなんでも雑すぎる。むしろ、どうして俺は気付かなかったのだろう。黒いコード。首でも吊れそうだ。頭の中のあいつが笑顔のままでそこの天井にぶら下がった。
 スパイめ。
 舌の先まで罵る準備をしていたのに、機械から漏れでた声のせいで息が詰まる。
『子守歌じゃねぇの』
 自分の声だった。
『アンタ、俺が歌っていると怒るだろ』
『いや。それは、輸送車の中、大声で、だから』
『ははは。いいだろぉ、明るくて……』
 たわいもない、いつ交わしたのかもわからないような会話。多分、この部屋であったはずの会話だ。自分の声が、この機械に収まっているのが歪に感じた。手の中から滑り落ちて、ボイスレコーダーが顔の横に落ちる。首にイヤホンのコードがしだれかかった。
 機械の中のあいつがふざけたように俺を『隊長』と呼ぶ。伍長だろうが曹長だろうが、あいつはそう呼ぶので、結局いつのことだかわからない。
 機械の中の自分が、あいつに話を促した。
『昔話です。俺らの出身地の。あ、この俺らってアンタじゃなくて、ほら、あの衛生兵と俺です。昔話っていうか童話? かわいい話ですよ、ガキの頃はよく、絵本が擦り切れるまで読んでいました。
 ほら。寝る準備をして。頭はちゃんと枕の上に乗りましたか。息を吐いて、目を閉じる……。
 いい? それじゃあ、始めますよ。』
 朗読というのが、まったく上手な奴ではあった。少なくとも、台本通りに読む分には。いつのまにか、自分の耳は、自分の声を滑らせて、貪るように、あいつの声ばかりを追っていた。このボイスレコーダーの意味なんて、考えられないくせに、ただ耳の中に入れていた。あとで。聞き終わったら、考えるから。
 目を閉じる。
 声は、ついに語り始めた。まどろみを促すように、あいつらしくない、夜を閉じ込めたような、低く落ち着いた声で。

・・・

 むかし、むかし、おおむかし。空に浮かぶ黄色の子、月は生きていました。そして、月にはお友達がいました。月のずっと足元の、広い大洋の中に棲む、ウミガメです。ウミガメはもう万年ほど生きていましたが、月は、もーっと、長生きでした。ふたりは、長生きどうし、とても気が合ったのです。
 「ぼくたち、いったい、いつ、死ぬんだろうねぇ」と、月はいつも、冗談めかして、そう言いました。月の十八番の冗談です。それに、ウミガメはいつも、くすくす、ささやかに笑うのでした。その、小さな、小さな笑い声が、月はいっとう、好きでした。自分が映る水面の中、穏やかな顔で笑っている。月にとってウミガメは、たいせつなお友達でした。
 ある時、月は自分のたからものの鍵を、落としてしまいました。ウミガメの棲む大洋のわきの灯台には、魔女が棲んでいるのですから、もし、そんなやつらに盗まれたら、月はとても困ってしまいます。しかし、月は、空から降りることはできないので、彼は、自分のいちばんのお友達、ウミガメに「さがしてほしい」と言いました。ウミガメはもちろん、自分のいちばんのお友達のお願いをきいて、自分の棲む大洋の、くらい、くらい底まで捜しまわります。
 ところで。じつは、万年も生きたウミガメは、自分に、死が、じわり、じわりと近寄っていることを、知っていました。ウミガメは、ひとり遺してしまう月のことを、ずっと気にしていたのです。
 鍵は見つからず、ウミガメは、大洋の、浅いところまで、戻ってきてしまいました。まだ空は、太陽によって白んでいて、月は遠くにいるので、話すことができません。もう一度、捜しまわろうとしたウミガメに、にゃあ、と声がかかりました。
「ウミガメ、ウミガメ。あたし、あなたが捜しているもの、知っているわ。きのうの昼、あたしのご主人様が、カラスを月まで飛ばして、月の鍵を、取ってしまったから。ほら。バカの月。昼は、寝ているからね。今だって、あなたを、自分のために泳がせているくせに、お日様の布団の中で、のんきに寝ているのよ。」
 魔女の黒猫が、ウミガメに声をかけたのでした。ウミガメは、びっくりして、水の浅いところで足を濡らした黒猫に、話を聞きました。黒猫は月の鍵を、魔女から預かっていました。それを頂戴、とウミガメがお願いすると、黒猫は、あっさりそれを渡しました。
「月のために頑張るあなたが、かわいそうだから。こうやって話しかけたのよ。ねぇ、もうすぐ死ぬあなたを、大洋の端から端まで泳がせるなんて。ずいぶん、ひどい月じゃないの。あたし、あたしのご主人様が、なんで月を嫌っているのか。わかったと思うわ。あいつ、自分が死なないからって、死ぬ生き物のことなんか、わかんないのね。でもね、ウミガメ。あなたたちの、あの冗談! 月ってもしかしたら、死にたいんじゃないかと思うのよ」
 ウミガメは、ぎくりとしました。それは、時々、ウミガメも考えていたのです。いつ、なんて、月にはないのに、まるでいつか、ウミガメみたいに、死んでしまうように言うのですから。黒猫は、ウミガメの肩に、前足を乗せました。
「きっとね、あなたに遺されるのがさみしくて、あんなことを言っているのよ。だからね。あたし、ほんとうに、親切心で、言うのよ。
 いい? 月は、殺せるわ。
 この鍵でね、月が、自分の真ん中に隠している、たからもの。月のこころ。それを、大洋の中へ、すててしまいなさい。そうしたら、月のこころはこなごなに砕けて、月は、殺されてしまうから」
「黒猫さん。わたしは、そんな、おそろしいことは、できないよ」
 ウミガメは声を震わせました。すると黒猫は背中を向けて、すい、と音もたてずに、水から、灯台のほうに歩いていきます。
「でも、ウミガメ。やっぱり、あなたと死を迎えられたら。月は、嬉しいんじゃないかな」
 彼女の言葉は、夜になっても、ウミガメの中に残りました。ウミガメにとって、太陽よりも暖かい月光が、大洋に映ります。ウミガメが鍵を背中に乗せて、彼に見せると、月は大喜びでした。けれど、水面と空に隔たれて、いったいどう、この鍵を届けるのでしょう。
「それはね、ぼくの姿が映る水面に来てくれたら、ぼくが魔法で引き上げるよ」
 ウミガメは月の言う通りに、ゆっくりと、まるい月が映る水面の、真ん中まで泳ぎました。ウミガメの甲羅も、月みたいに、黄色に染まります。月は嬉しそうに笑い声をあげました。ウミガメは月の映る水面と、彼の柔らかな光の梯子を伝って、月の、すぐそばまで、やってきました。……。
 鍵穴が見えました。
「ウミガメ?」
 月が不思議そうに、ウミガメを呼びます。ウミガメは、すこし、彼に鍵を返すことをためらうと、鍵を、そのまま差し込んで、くるりと回して、たからものを、取り出しました。月のこころは、柔らかい光をまとって、ウミガメの棲む大洋のように、澄んでいました。あんまりにも澄んでいるので、大洋に落としたらきっと、二度と見つかりません。ウミガメのたいせつにしていたものが、そこに、すべてありました。
「ぼくは。」
 月は、やや困ったような、優しい声で、「そのつもりは、なかったけれど」と続けて、言葉を止めました。月はウミガメを見つめて、すこし、そのままでいました。
「ウミガメ。きみが、したいようにしていいとも。ぼくの、いちばんの、お友達」
 ウミガメもまた、月を見つめていました。そのはずですが、ウミガメの視界は、ずっとかすんで、もう、月の顔を見ることはできませんでした。ただ、空にいるのに、大洋のにおいがしました。
 ウミガメは、月のたからもの、月の心を、手放しました。すると、月の魔法も解けて、ウミガメもまた、落ちていきます。ひっくりかえって大洋に落ちたウミガメは、砕けて、ばらばらに割れました。大洋は、月を殺したウミガメを、拒絶したのでした。ウミガメのかけらがひとつ、灯台に落ちると、にゃあ、とひとつ、かなしそうな声が、夜に飲み込まれていきました。
 こうして、むかし。月はこころを失いました。月は、ウミガメを一緒に、死んでしまったのです。
 
・・・
 
『おしまい。……どう? これさぁ、俺ね。ウミガメはたからものをかえそうとしたと思うんですよ。でもその前に死んでしまって、だから落とした。小心者のウミガメは、結局、お友達を殺すのは、できなかった。そう思いませんか。
 隊長。たいちょう……? ははは。おやすみなさい』
 音が、ボイスレコーダーから、それ以上流れることはなかった。音声が終わった、わけでもなく。きっと、いつのまにか勝手に録音されて、それがそのままなのだ。バカな男だ、こんな、どうでもいいもの、さっさと消してしまえばいい。昨日、俺たちの上司が、会議に出かけたじゃないか。お前、音楽の趣味が合うって、あの上司に、気に入られていただろう。べたべた肩を組みあって、あんなの、いつでも。
 思い出した。このボイスレコーダーの、この時。お互いに昇進して、その緊張が、なんとなく寝つきを悪くしていた時だ。四年前だったか、俺は結局、あいつの声で、黒猫も出てくる前に寝たんだった。
 床にあいつの私物が散乱していた。黒ばっかりの服や下着から、几帳面に棚の中に入っていたCDまで。天井裏もあけて、なんならトイレのタンクの中も見て、あいつがよく行っていた食堂や、唯一公用のパソコンがある資料室にも赴いた。既に昼で、かかとに踏まれているあいつのスウェットは白い埃が照らされている。
 これ以外の録音機器は見つからなかった。
 盗んだと思われた書類すら治療室のシュレッダーの中から見つかって、あの衛生兵がただ俺を睨んでいた。覚えのないUSBが上司の事務室から見つかったらしいが、中身はただの作曲データだったという。「残念だったな」と言った上司の顔は冷めていた。
 昨日、問い詰めたとき、いつも通り笑って、「そうですね」と言った、あいつの顔だけが脳裏にこびりついている。
 なにが「そうですね」だ。
 部屋の入口に膝をつく。CDの角が膝に刺さって、小さな痛みを訴えた。視線を降ろすと、自分の指先がいやに真っ白で、爪は紫色に湿っている。手首までが手汗で濡れていた。日も明けない今朝よりはるかに疲れていたが、気分はまったく凪いでいた。
 裏切る気がないのなら、そう言ってほしかった。死というやつはいつだって、取り返しがつかないときにやってくるのだ。薄い陽光は既に部屋を満たして、ずいぶんと黄色に満ちている。服とCD の海が光を反射してまぶしい。顔をあげて天井を見つめる。片耳にさしたままのイヤホンはまだ静寂を紡いでいた。黒いコードがピンと張る。
「俺は、月でもよかった」
 今日はよく眠れるだろう。

 おしまい。

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