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点滅とかぎあな【創作大賞 恋愛小説部門 短編】

 あらすじ
 地元から上京して風俗で働く真里は、お笑い芸人の涼紀と狭いワンルームで暮らしていた。性行為もなく、恋愛関係とも言い難い涼紀との曖昧な日々を過ごしている。
 そんななか、中学のクラスメイトである翔に再会するが……。
 少しいびつで純粋な恋模様。

 知らない男とのセックスの後は喉が渇いてしかたがない。十代半ばに覚えた気晴らしはいつしか労働に代わっていて、生活のための金銭になった。たったいまも初対面の男に抱かれている間、男が吐きだす臭気を感じないようにできるだけ口から酸素を補給している。キスのときだけはしかたがないけれど、してしまいさえすればもう気にならなくなっていた。
 ひどい作り笑顔で客を見送ったあと、今日何度目かのマウスウォッシュを口に含む。刺激の少ないものを選んでいてもこう何度もとなると口の中に嫌な感触が残ったままだ。それでも不快な存在を消しさるためにはそうせざるを得ない。口の中に残った、最後の知らない男の欠片を吐き出してからシャワーで身体を洗い流した。
 
 日中はまだ夏の名残りを色濃く残してはいても、九月上旬の夜風はやはりひんやりとしていて快い。振り返ると立て看板から【ソープランドほほえみ】という文字を形どった電飾が安っぽい光を垂れ流している。これが自分の勤務先だと思うとつくづく笑えない。
 最寄りの赤羽駅から池袋駅を経由して、東武東上線に乗り換える。家の最寄りの東武練馬駅は各停しか停まらないから、約二十分間電車に揺られることになる。終電に近い時間ということもあってか、この時間に乗るときはいつも空いていてあたしはたいてい同じ車両の同じ席に座る。スマホを取り出し用もなくネットの海に浮かんだ。SNSの文字の羅列をとりあえずスクロールする。
──ついに風船飛んじゃった。今日で二十五です。アラサー女の誕生です。どうぞよろしく。
 泣き顔の絵文字とともに流れてきた文面に目が留まった。フォローはしていない。おすすめ欄の知らない女の誕生日らしい。二十五歳で自分をアラサーと呼ぶことへの違和感と危機感を同時に覚えた。あたしも今年でそのアラサーの仲間入りなのか。
 十八歳で地元の北海道から東京に出てきてもう六年が経っていた。あたしはなにがしたかったんだろう。いまだに見つからず、風船のようにふわふと浮かんでいるだけ。誰かにスクロールされたみたいに毎日がただ流れている。
 現実から目を背けるように、窓外に目を向けた。池袋から徐々に寂れていく街並みは見ていて安心する。あたしにはやっぱり都会が肌に合わない。心身の表面にコーティングした都会に対応するための分厚い膜が、北池袋、下板橋、大山、と通り過ぎるたびにゆっくりと剥がれていくようで心地良かった。勤務先を池袋ではなく赤羽にしたものも、きっと無意識の内にそういう気持ちがあったのかもしれないと思った。
 東武練馬駅に着くと、駅近くにあるショッピングモールや映画館などが併設された大型の商業施設に寄った。二階から上のレストランエリアやフードコート、映画館などはもう閉まっていて、食品スーパーの一階エリアだけが明るかった。上りのエスカレーターはすでに封鎖されていて、あたしはその奥に見える暗闇が苦手だった。いくつかの会計機はその役目を終えており、無造作に覆われた布が、かけ布団を寝相で蹴飛ばす子どもみたいに見えた。
 レジとは反対方向に折れて、あたしはいつも惣菜コーナーに立ち寄る。フライコーナーには半額の立て札がかけられていて、売れ残った商品につい感情移入してしまいそうになる。それらを無視して、サラダとサラダチキンを手に取る。スープ春雨も買おうかと場所を移動しようとしたとき涼紀のことが頭に浮かんだ。おそらくなにも食べずにいる男のために再びフライコーナーへと戻った。
 スーパーを出て長い坂を下って行くと見えてくる小さな木造アパート。ところどころペンキのはげた鉄骨階段を上る。外廊下をチカチカと明暗繰り返す電灯が目にうるさい。住人の誰かが管理会社に連絡しない限り新たな電灯に替えられることはない。辺りから漏れる光のおかげで全くの暗闇というわけでもないから切れてしまったところで不便はないのに。そう考えると、残りの力を振り絞って無意味に照らす電灯が、誰にも必要とされていないのに必死に呼吸を繰り返す生き物みたいで少しだけ可愛く思えた。
 進んだ先の角部屋の前に立つ。鞄から合鍵を取り出して差し込んだ。回そうとした感触で鍵がかかっていないことに気がついて、そのまま鍵を抜きさる。扉を開けると目の前に雑多な六畳一間のワンルームが飛び込んできた。その中央であぐらをかく家主の価値が相応に思えて腹が立つ。一緒にいるあたしまで。
「ただいま」
「おう」
 涼紀がこちらを振り返りもせず手を挙げる。
「ご飯食べた?」
「まだ」
「買ってきたけど食べる?」
 そこまで言ってようやく涼紀がこちらを向く。あたしよりも食料に反応したことが気に入らなかったが口にしてもしかたがないので飲み込む。
「なに買ってきたん?」
 なに買ってきた? じゃなく、なに買ってきてくれた? でしょ、と内心毒付くけどやっぱり言わない。そんな細かなニュアンスの部分がいちいち気になるのはあたしの性格だから、涼紀が悪いわけではない。そう自分に言い聞かせて笑顔を作る。
「揚げ物が半額だったの。とんかつとかからあげとか」
「じゃあとんかつ」そういってビニール袋からとんかつを取り出す。
「あたしはサラダあるから、両方食べていいよ」
「あっ、そう。ほな遠慮なく」
 からあげも取り出して、「ご飯は?」と聞いてくる。
「ないよ。炊こうか?」
 あっ、と小さく漏らす。「あーいや、ええわ」
 おそらく一瞬で自らの腹の空き具合と、米が炊きあがるまでの時間を計算したのだろう。それをそのまま言えばいいのに、頭に浮かんだ言葉を言語化するのが面倒で愛想のない答え方をする。
 涼紀はとんかつとからあげを二つとも一緒に電子レンジに入れて、あたためスタートのボタンを押した。とんかつにはとんかつの、からあげにはからあげの、それぞれに最適なあたため時間があるはずなのに、同じ揚げ物として一括りにしてしまう。
 あたしはこの人のどこが気に入ったのだろう。そもそもあたしはこの人のことを気に入っているのだろうか。母から逃げるように出てきたこの東京に居場所を求めただけなのか。一人になりたかったはずなのに、一人には慣れなかった。そんな折にたまたま出会った男というだけのことなのかもしれなかった。

 物心がついたときにはもう父親はいなかった。あたしがお父さんと呼んでいた人は、母の恋人の一人だった。小学生の頃は父親代わりの男に懐いていたけれど、成長と共に代わる【母の恋人】にいつしか心を開けなくなった。どうせ、すぐにいなくなる。母は熱しやすく冷めやすいタイプのわかりやすい恋愛体質だった。思春期のあたしに構わず母は当たり前のように自らの経験を話した。あたしを産んで親になってからもそれは変わらなかった。
 母のことは嫌いではない。けれど、尊敬すべき相手かと問われれば疑問を抱く。好きでも嫌いでもなくただ、母親だという事実だけが感情を超えて浮かんでいた。
 初めての経験は十五歳だった。相手は当時の【母の恋人】。無理矢理されたわけでも、大人の男性に憧れたわけでもない。ただ、これほどまでに母を虜にしているものの正体を知りたくなった。
 母が寝ているすぐ隣で、【母の恋人】は一人酒を注いでいた。後ろからそっと抱きついてみると、男の動きが止まった。しばらくなにかを考えたような素振りを見せたあと、手に持っていた缶ビールとコップをテーブルに置いた。初めてのキスは苦いビールの味がしてどうしようもなく不快だった。パジャマの上からまだ成長途中のふくらみをゴツゴツとした手が優しく撫でてきた。まるで意思を確かめるように、逃げ場を作るみたいにゆっくりと。その姑息さが迷惑だったのに、反して身体はくすぐったいような気持ちよさがあった。身体と心に正反対の反応が同居していて、身体と心は別物なのだと初めて理解した。
 服の中に手が伸びてくる。缶ビールを握っていた方の手がやけに冷たい。下着は付けていないから、肌に直接ひやりとした感触が伝わる。咲きかけの、半分つぼみのような穂先を指で弾かれると、とっさに声が漏れた。必死に手で口を覆う。母から寝言になる前の音がこぼれて男の動きが再び止まった。起きないのをしっかりと確かめてから、あたしの腕を掴んで洗面所へと連れだす。もう男の手に冷たさはなかった。
 その日以降、母は家に恋人を連れて来なくなった。あたしと男の行為に気付いていたのだろうか。だとすれば、恐ろしかったのかもしれない。まだ子どもだと思っていた娘が自分の恋人を誘惑したことが、あるいは自分の恋人がそれを受け入れたことがどうしようもなく恐ろしかったに違いない。それとも単純に男が家に来ることを嫌っただけかもしれない。真意はわからない。けれど、どちらにしてもあたしはなんとなく、いままで以上に居心地が悪くなっていった。
 高校を卒業したらすぐにでも家を出るつもりだった。母にはそれとなく伝えていたけれど、母はそのことについてなにも言わなかった。卒業式の日、初体験を捧げた男に会いに行こうと思った。その頃にはすでに母とも別れていて会うのもあの日以来だ。
 いつか見た男の作業着の胸の辺りに会社名が刺繍されていたのを思い出し、それを頼りに工場へ向かった。男はあたしの姿を認めると、あわてた様子でこちらに走ってきた。挨拶もなく目の前まで来ると、ポケットを探り財布を取り出した。札を選び抜き、あたしの手に握らせた。あたしがなにかを言う前に、男は踵を返し工場の奥へと消えていった。
 一万円札が三枚。口止め料。なぜか口の中でビールの味がして苦い記憶がよみがえった。あたしはその苦味をうまく飲み込めずにえずいた。三万円という値が高いのか安いのか、その判断はつかなかったけれど、他人に勝手に決められたあたし自身の価値にひどく落ち込んだ。なにかを期待していなかったわけではない。けれど、この手の中に握ったものが期待していたなにかでないことだけは明確だった。ただ覚えていてほしかった。あたしだけの記憶にしていたくなかった。「久しぶり」だとか、「卒業おめでとう」だとか、そんな心の通わない定型文でよかったのに。あたしはその足で、きつく握りしめた紙を持って東京に逃げた。

 電子レンジの凛とした音が思い出したくもない過去を頭の奥に押し込んだ。慣れた手つきで涼紀がとんかつとからあげをレンジの中から取り出した。この部屋に住んでから何度その作業を繰り返したのだろう。なんとなく情けなくなったけれど、涼紀はそれがさも当たり前のように二つのパックを持って元の位置に戻っていった。サラダチキンの袋を開けて直接サラダの上に乗せる。涼紀の前にある、天板がガラス製のローテーブルに置いて隣に座る。
「明日なにしてる?」割り箸を割りながら聞く。
「ライブ」涼紀が口の中のからあげを飲み込んでから短く答える。
 涼紀はお笑い芸人をしていて、テレビにはあまり出ていないが、劇場でライブに出てお金を稼いでいるらしい。もっとも、前に聞いたとき、事務所からもらう給料は月平均八万円程だと言っていた。涼紀を通じて知り合った後輩芸人の話を聞くかぎりそれでもすごいことらしい。わざわざ都心から離れたこの部屋を借りているのも、家賃が三万円代だからバイトをしなくてもぎりぎり暮らしていけるという理由だった。涼紀が通う場所は主に新宿か渋谷で、たまに神保町と、どこに行くにしても不便だった。けれど、それを除けば内装はそれなりに綺麗だし、なによりこの家賃でトイレとバスルームが別なのはめずらしい。
「何時から?」
 スマホを取り出して、「入り? 開演時間?」
 入りとは集合時間のことだ。
「開演時間」
「十八時」
「あたし観に行こうかな?」
 なにも答えない。好きにすればいいということだ。
「当日券ある?」
「あるんちゃう?」
「帰りなんか食べに行かない?」
「あー」
 言いながら再びスマホを操作する。
「たぶん行ける」
 おそらく、いつも飲みに行く先輩もしくは後輩の名前が出番表になかったのだろう。
「じゃあ行くね」
「仕事はええんか?」
「大丈夫。明日は休み」
 涼紀には飲食店でアルバイトをしていることにしている。といっても、特に深くは聞いてこないから飲食店でアルバイトをしているという仮の設定はあたしの中だけで、この人には伝わっていない可能性すらあるけれど。
「そか」
 自分から聞いたくせに、答えるころにはもう興味を失っているみたいな返答をするのは涼紀の癖みたいなものだから気にはしない。
「どんなライブ?」
「どんな?」
 ひとりごとみたいにポツリと繰り返して、動かしていた箸を止める。
「むずかしいこと聞くなぁ」
「そう? ネタをするの? それかトークライブ? それとも企画?」
 聞きながらあたしもずいぶんと詳しくなったものだと自分でおかしくなってしまった。
「なにがおもろいねん」
「なんか、あたし詳しくない? って思って」
「詳しすぎや。俺と会ったころはネタってなに? とか聞いとったくせにな」
 涼紀に会うまでお笑いなんてものはテレビのバラエティ番組でしか見たことがなかったし、漫才やコントも初めてで、見るものすべてが新鮮だった。北海道で過ごした時間の方が何倍も多いはずなのに、涼紀に出会ってからの方がずいぶんと多く笑っている。いままでの分を取り返すように。
 

 涼紀と出会ったのはニ年前。とびきりつまらない合コンの最中だった。
 新宿の南口にある焼き鳥がメインの安い居酒屋チェーン店で開かれた飲み会は、たいして飲んでもいないのに吐き気がしてくるほど欲望にまみれていた。その日は隠すのにも疲れて職業を偽らなかった。恋人探しからあからさまにその日限りへと目的を乗り換えた男たちの目が鬱陶しかった。普段なら気に障ることもなく男の行動に理解を示し、いい女風を装ってできるだけ清潔感のある男と抜け出すところだった。けれど、その日はあいにくの生理だったこともあって気が乗らなかった。適当なところで切り上げようと機会をうかがっている間、周りのテーブル席に目が行った。右斜め前のテーブルでもあたしたちと同じようなグループがいて、聞こえる限り健全に下品な話をしているようだ。
「──ちゃんも、ゴムなんてないほうが気持ちいいよね?」
 見た感じ大学生か、もしくは新社会人くらいの年齢の男が目の前のおとなしそうな女に問いかける。冗談めかしてはいても、欲望を隠そうともしないのは自らの容姿に自信があるからだろうか。整った顔から放たれる卑猥な言葉は、ときおり安心感を与えることがある。聞かれた彼女も体裁のため嫌がった素振りを一応はしてみるも拒絶しているようには見えなかった。
「私はピル飲んでるから平気だよー」横の派手な髪の女が言うと、そのテーブルは品のない笑い声に包まれた。とほぼ同時に、席を立ち無言のまま店の外へと歩き出す男に目を奪われた。なにが起こったのかわからずに困り顔を浮かべる女たちに、「ああ、気にしないで。あいつ変わってるやつだから」と、悪くなった空気を別の男がすぐに循環させていた。
 あたしはつい気になって、トイレ、とだけ言い残しかばんを持って、出て行った男を追いかけた。
 エレベーター待ちをしていたその男と目が合った。視線を逃すようにエレベーターの方を向いて男の隣で待つ。話しかけるタイミングを失ってしまった。百六十五センチのあたしより十センチほど背が高い男の顔を見上げる。特徴的な一重瞼に長い睫毛が映えていて、つるんと綺麗な肌をしている。いわゆる一般的なイケメンというようなつくりではない。けれど一部からは絶大な人気を誇りそうなそんな顔立ちだ。
 あたしたちが待つ三階フロアにエレベーターが到着して扉が開く。階数ボタンの前に立ち、閉めるのボタンを押した。なんでもいい。なにか話しかける糸口を探るが、考えが浮かぶ前に扉が閉まった。しかたなく「何階ですか?」と聞いてから自分のバカさ加減に気がついた。
「いや、一階しかないやろ」
 もっともな指摘だった。けれど、初対面の相手に失礼な気もした。驚いて振り返ると男はバツの悪そうな顔を浮かべていた。
「あー悪い。あんたがいきなり変なこと言うからついつっこんでもうたやん。やばいな職業病やわ。気にせんといて」
「いえ、職業病って」
「芸人やっててな」
「そうなんですね」芸人という職業がどんなものなのか知りたかったけれど、それよりも気になったことがあった。
「あの、どうしてお店出てきたんですか? 盛り上がってましたよね?」
「なんや、見てたんか」
「ごめんなさい」
「別に謝らんでええわ。会話聞こえてたか?」
「少しだけ」
「そか。どう思った?」
「あたし、今日生理なんです」
「どういうことやねん。会話何ターンか抜けてるやろ。一人で先行くなや」
 男がまたあたしにつっこみ? ながら大きく笑う。あたしもつられて笑ってしまう。生理だから不快に思ったけど、普段ならなにも思わない。そう伝えたかったが言葉足らずだったし、正直に答えようとしすぎだった。
「ほんで、あんま初対面の男にそんなん言わん方がええで」
「たしかに。ごめんなさい」
「だから謝らんでええて。それよりさ」
「はい」
「階数ボタンはよ押してくれへん?」
「あっ」すっかり忘れていたあたしはあわてて階数表示を見上げる。押すまで動かない仕様らしい。
「見知らぬ人とエレベーターに二人きりで、階数ボタンの権利握られたままの質問責めめっちゃ怖いねんけど」
「あはは」あたしは心の底から笑った。自分の間抜けさと、男が吐き出す言葉が繋がっているみたいで嬉しかった。
「笑いすぎや」
「何階ですか?」
「怖いて。どこ連れてく気やねん。はよ一階押して」
「やだ」
「なんでやねん。かるく軟禁状態やぞ」
「名前教えて?」
「この流れではちょっと嫌やなぁ」
「なんでよ。あたしの名前は、真実の真に里って書いて真里。あなたはだあれ?」
「なんでそんなトトロに名前聞くときのメイみたいに言うねん」
「トトロ……? あなたトトロっていうのね?」
「ちゃうわ。涼しいに何世紀とかの紀で涼紀」
 一階のボタンを押す。焦らされていた機械が命令を与えられて活気付いた。音を立ててあたしたちを運ぶ。階数表示の三がまもなく二に変わった。
「涼紀くん。なんで店出てきたの?」
「涼紀でええ。気分悪い話しとったから。それだけ」
「下ネタ苦手なの?」
「下ネタっちゅうか、まあええやろ別に」
「まあいっか。ねえ、飲みたりないでしょ?」
「いや、別にそんなことは……」
 揺れが収まって扉が開く。
「あたしがたりない」
 涼紀の手を半ば強引に引っ張ってエレベーターを出た。
「知らんわ」
 そう言いながらも、無理矢理振り払うことはしなかった。

 近くの安い居酒屋で終電近くまで飲んだ。涼紀はあたしについてほとんど質問をしなかったけれど、こちらがする質問には答えてくれた。
 歳はあたしより七歳上の今年三十の歳らしい。言われてみればあたしよりいくらか大人にも見えるけれど、同年代と言われても納得してしまうようなどっち付かずの見た目だった。他にも、芸人という職業のこと、大阪ではそこそこ売れていたこと、東京に出てきて仕事が減ったこと、それが原因で相方と解散したこと、いまは新たにコンビを組んだこと。色々なことを聞いたが、そのどれもが初めて聞く話ばかりで、興味がつきなかった。
 話を聞く限り手持ちもなさそうだったから、お会計はあたしがした。
 店を出て駅へと向かう。アルコールのせいで身体に帯びた熱を、秋風が優しく包む。
「家どこ?」と聞かれて、終電が終わっていそうな遠い駅をでたらめに答えた。手元の液晶に表示された時刻が微妙な数字を示していたから。急げば終電に間に合うけれど、一人暮らしの部屋は酔いを醒まして急いで帰るほど居心地の良い場所ではなかった。
「しゃーないな。うち狭いけどええか?」
 なんとも雰囲気のない誘い文句だったのに、涼紀らしいとも思った。出会って数時間しか経っていないけれど、この人に洒落たセリフは似合わない気がする。
「あたし、今日生理なんだけど」
「だからどういうことやねん。お前の中でキラーフレーズなんか? それ」
 今回は間違っていないはずだった。なのに涼紀は意味がわからないと言う。
「生理でもいいの?」
「別にええやろ」
 経験上、男は基本的に生理の日には会いたがらないし、一夜を過ごすなんてありえないはずだった。
「なんかあんのか?」
「急に機嫌が悪くなったりするかも」
「なんやそれくらい。なんぼでも悪なったらええわ」
「いいの?」
「その度に笑わしたるわ」
 涼紀が照れくさそうに笑った。彼の頬が赤いのはたぶんお酒のせいだけど、あたしの頬は違うかもしれなかった。
「つっこめよ」涼紀に肩を押されてよろけそうになった。
「なんでよ?」
「めっちゃダサかったやろ。恥ずかしいて死んでまうわ」
 ボケ、というやつだったのか。あたしは遅れて笑う。
「カッコよかった」
 あたしが言うと、なんでやねん、とすぐさま返ってくる。心地良い夜風が肌をさらった。

 出会ったあの日、あたしたちはセックスという簡単でわかりやすいピークを迎えなかった。だからか、なんとなく緩やかにそのままの延長線上で暮らしている。
 涼紀はあたしが家に帰らないことについてなにも言ってこなかったし、二、三日寄らなくてもなにも言わなかった。そのうち必要のなくなった自分の部屋を相談もせずに解約したら、涼紀はただ、むちゃくちゃやな、と笑っていた。

 渋谷にある劇場を出てから、スマホを確認すると、涼紀からのメッセージが入っていた。
──先輩に誘われてもうた。
 漏らしそうになった溜め息を止めて、酸素を思いきり吸い込んだ。都会の空気は不味いだとかよく耳にするけれど、グルメでもないあたしにはわからなかった。
──わかった。先帰ってるね。
 指を動かし終えたのとほぼ同時に、都会の喧騒をかき分けて耳に飛び込んで来た声になつかしい匂いをかすかに嗅ぎ取った。
「真里っぺ?」
 声の方へ顔をあげると男がこちらを覗きこんでいた。褪せていた記憶に再び色が戻ったように、様々なシーンが頭の先に浮かんでは脳の奥へ沈む。
「翔……くん?」
 翔は、小学五年生のときに東京から北海道に引っ越してきて、中学二年の夏休みに再び東京に戻っていった。あれからずっと会っていないのに、面影を色濃く残したままだ。
「うわー、なつかしいね。元気にしてた?」
 大人気もなくはしゃぐ翔はあのころと同じように見えた。けれど、スーツ姿と腕につけたブランド物の時計をチラリと見遣る仕草が、過ぎ去った時間を表しているようだった。身長もあの頃は同じくらいだったのに、いまはあたしよりずっと高い。よほど上手く成長したのか、二重瞼はよりクッキリとしていて、可愛らしかった顔立ちも成長過程で散らかることなく整ったままだ。
「このあと時間ある?」
 一通り再会の挨拶を終えてから翔が言った。近くに彼が通う美味しいフレンチのお店があるらしい。あまり渋谷に明るくないあたしはついていく。井の頭通りを駅とは反対方向に歩きだした。少ししたところで奥まった路地へと入っていく。隠れ家的な場所なのだろうか。センター街の華やかさとは画したひっそりと佇む店の前に、ビストロと書かれた看板があった。外観はお世辞にも褒められたものではなかったけれど、店内は落ち着いた様子で、アンティークな木目調のテーブルとイスが洒落ていて、間接照明が優しくそれらを照らしている。カウンターとテーブル席があり、あたしたちはテーブル席に着いた。慣れた手つきでメニュー表を手にする翔を見て注文は任せることにした。
「いまはなにしてるの?」
 ありきたりな質問がチクリとあたしの胸を刺す。昔のことを知っている相手にいまの状況をあけすけに説明する気にはなれなかった。かといって取り繕うための嘘を造り上げるのもそれなりのエネルギーがいる。
「普通に働いてるよ」
 普通がなにを指しているのかもわからないくせにそう答えた。「そっちは?」 とつい無愛想に聞いてしまったのに、翔は気にもとめない様子で、慣れた手付きで懐から名刺を取り出してこちらに渡してくる。【データサイエンティスト】と表記されていたが、どういう職業なのか見当もつかなかった。先ほどの無愛想を取り返すように「すごいね」と言うと、常套句にしているであろう説明を滑らかに澱みなく話し出した。少しも理解できなかったけれど、退屈にならないちょうど良いタイミングでワインが注がれて中断した。「二人の再会に」という言葉を恥ずかしげもなく乾杯の音頭にしてしまう翔に、心の内側がザラリと逆立つ。表面化してしまう前にワインで流し込んだ。食事中は踏み込んだ話題にはならなかった。危険のない浅瀬でお互いの時間を埋めあったフリをした。踏み込まないことが息苦しかった。幼かったとはいえ一度は心を許したはずなのに、初対面の相手以上に気を遣ってしまうのはどうしてだろう。

 食事を終えて、そろそろという時間になったところで、「俺、あのとき真里のこと好きだったんだよな」とぽつりとこぼした。
「あたしも好きだったよ」
 そう返すと嬉しそうな顔を隠そうともしなかった。おそらく同じ気持ちだったことが単純に嬉しいというようなそんな子どもじみた感情ではない。この後の可能性に期待した下心からくる表情だろう。いつの間にか会計を終えていて、スマートな振る舞いが少しずつあのころの面影を薄めていった。店を出たところで翔がまた腕時計を見遣る。なにやらスマホを操作しながら大通りまで出ると、タクシーが止まっていた。終電まではまだ時間があったのに、アプリで呼んでくれていたらしい。
「また会えるかな?」
 意外だった。あたしだけをタクシーに乗せて、翔は乗り込んでこなかった。
「乗らないの?」
「うん。本気だから」
 質問と答えが合っていない。いや、やりとりを飛ばしたのだ。あたしにはその意図がわかる気がする。あたしを抱きたいだけなら一緒に乗り込んだ、ということなのだろう。翔の行動を鑑みると、先ほど見せた表情もあるいは。
「また会える?」もう一度同じ質問が来る。あたしは小さくうなずいてから、運転手さんに目線を送った。ドアが閉まり、窓を開ける。
「今日はほんとにありがとう。ごちそうさま」
 翔が照れくさそうに手を振る。カチカチっとウインカーの音がして、タクシーは動き出した。
「今度は送るよ」
 翔の控えめな声に曖昧な返事をして、手を振った。建ち並ぶビルからの灯りが鬱陶しかった。

 あれから翔とは何度か会った。流れに身を任せるように二人で明かした夜もあった。彼の本気を上手に受け流すのもそろそろ難しくなってきている。翔はあたしに惜し気もなく愛情を渡してくれる。あたしはそれを持て余している。とりあえず家には持ち帰るけれど、開けることも捨てることもなくただ部屋の端に置いておくみたいに。その箱を開けるにはそれなりの覚悟を必要としていて、自らの箱も開けて見せなければならない。それがたまらなく億劫だった。

──来週末、出張で北海道に行くんだけど、一緒に行かないか? もうしばらく帰ってないんだろ?
 翔からのメッセージを未読にしたまま、
──今日のライブ終わりにタイニーさんの店行くんやけど来る? 久々に会いたい言うてるわ。
 涼紀のメッセージに既読をつける。タイニーさんは涼紀がお世話になっている元芸人さんで、涼紀の三年先輩にあたる。いまは西新宿で小さなバーを経営していて、涼紀に連れられてよく飲みに行かせてもらっていたのだ。行く、と短く打ち込んでからそっけないような気がして、スタンプを添えた。子どもをイメージしたかわいいキャラクターがグッと親指を立てていて、その憎たらしい表情が愛らしくて気に入っている。
 
 半螺旋のような階段を下って、【bar tiny 】と書かれた木札が掲げられた扉の前に立つ。木枯らしに身をすくめながら遠慮がちに扉を開けた。薄暗い照明にうっすらと聴こえてくるBGM。ゆったりとした洋楽のインストゥルメンタルの隙間に重なるように頭上から鈴の音が響いて、タイニーさんと目が合った。
「マリリン〜」と胸の辺りで両の手のひらをこちらに向けて慌ただしく左右に振る。タイニーさんだけが呼ぶあたしのあだ名だ。タイニーさんとカウンターを挟んで奥の方に涼紀がいた。他に客はいないようだった。カウンターはL字型になっていて、長辺には四つの椅子が設置されていて、奥の方にある短い辺にちょうど二人分の席がある。タイニーさんにお久しぶりです、と挨拶をしてから涼紀の隣に腰かける。
「ねぇ、最近全然きてくれないじゃないの〜。寂しかったのよ〜」
 語尾を伸ばすのっぺりとした独特な話し方は、あたしに妙な安心感を与えてくれる。彼がイメージする女の子を誇張したような。前回訪れたときよりも、化粧が上手になっていて、より女の子に近付いている気がする。元々、小柄な体型に童顔だということもあって、初対面だと女性と間違えてもおかしくないほどに綺麗だった。
「タイニーさん、また綺麗になりました?」
 大袈裟に口許に手をやり、反対側の手で、胸の前で肘を曲げて手首より先だけを折るようにこちらに振る。芸人さんがする主婦同士の立ち話をまねたときに出てきそうな仕草だ。
「やだっ〜。もうマリリンお上手なんだから。でもね、マリリンみたいな美人に言われたらイヤミに聞こえるわよ〜」
「ほんとですよ。タイニーさんにはイヤミもお世辞も言いません」
「お世辞は別に言っていいのよ。ねえ、なに飲む〜?」
「おまかせしても?」
 もちろんよ、と言って後ろを振り返り棚に並べてある酒を吟味する。
 タイニーさんは、芸人としてデビューしてすぐに日の目を浴びた。二年目の終わりごろには、テレビで観ない日はないというくらいの売れっ子で、ある時期を過ぎたあたりで番組には呼ばれなくなり、世間では一発屋と呼ばれた。ただ、芸人として稼いだお金で投資を始めるとそれも当たり、しばらくして芸人を辞めたという。いまでは後輩芸人のために採算度外視のバーを趣味で経営している。
「なに飲んでるの?」
「ブルーなんちゃら」
 青色のカクテルが間接照明に照らされて、薄い部分と濃い部分がグラデーションになっている。海外のリゾート地の海を思わせる色合いをしていた。涼紀がカクテルを飲むのはたぶんこの店だけだ。普段、家では安い発泡酒だし、外でもビールか焼酎が多かった。チャイナブルーね、とタイニーさんが教えてくれる。
「兄さんおかわりいいですか?」
「もう、兄さんって呼ばないでってば」
 あたしは初め、タイニーのニーを取ってニーさんと呼んでいると思っていたのだけれど、大阪では先輩芸人のことを兄さんと呼ぶ習慣があるのだそう。それもいまでは少なくなっている、と以前二人から聞いていた。タイニーさんは兄さんと呼ばれるのを嫌がっていて、それはもう芸人じゃないからなのか、それとも女性への憧れからなのかは聞けずにいる。涼紀は、俺の中で兄さんはずっと兄さんや、と頑なにそう呼び続けている。お互いにお互いの言い分があって、譲れない部分なのかもしれなかったからあたしはなにも言わない。
「マリリンも来たことだし、二人おそろいのにしちゃおうかしらね〜」
 まるで中学生が思春期の恋路をからかうような口ぶりでひやかす。涼紀は意にも介さず、中身を飲み干したグラスを返す。つまんない、と膨れるタイニーさんが可愛かった。
 二つ並べたグラスの縁には、薄く切られたライムが綺麗に刺さっていて、中のどろっとした赤い液体を中和しているように見えた。見た目はトマトジュースのよう。
「ブラッディ・マリーよ」
「あたしの名前?」
「そうよ〜」
 あたしがすぐに意図に気付いたことが相当嬉しかったみたいで、タイニーさんは満面の笑みを浮かべている。
「さぶっ」と涼紀が言って、「もうっ」とタイニーさんが膨れる。
 あたしもどちらかというと、恥ずかしかったけれど、ここはタイニーさんの味方になって喜んだ。
 タイニーさんは、嬉しそうに小さな声で、まり、まり、とあたしの名前を何かのメロディに乗せて何度も繰り返していたけれど、あたしはその曲に覚えはなかった。以前にもあたしの名前を繰り返しメロディに乗せていたことがあったが、前に聞いたメロディとも違っていたので、もしかしたらタイニーさんがテキトーに作っているだけかもしれなかった。
「美味しいです」
 甘さがあまりなくドロっとした見た目とは反して、爽やかな味わいがした。
「でしょう。普段は出してないんだけどね。マリリンのために用意したのよ」
「そうなんですか? 嬉しい」
「りょうちゃんは? どう?」
 静かに飲み続けている涼紀に視線を移す。
「美味しいですよ。ただ、名前だけ変えて欲しいですけど」
「なんでよ〜。変えたら意味ないじゃない」
「あたしの名前が入ってたら嫌なの?」
「いや、そうやなくて」
 二人から責められてめずらしく涼紀が弱々しい、と思っていたらどうやら違うみたいで、
「ブラッディって血でしょ? なんか気持ち悪ないですか?」
「そっち?」とあたしとタイニーさんが同時に返す。
「なんで飲み物に血なんか名前つけんねん。吸血鬼の太客でもおったんかい」
 変な文句を言いつつも残りの血を一気に飲み干して、涼紀がトイレに立った。
 涼紀の姿が見えなくなると、マリリン、と声のトーンを落としてタイニーさんがあたしを呼んだ。迷ったが、口をつける寸前のグラスをテーブルに置いた。
「りょうちゃんとはうまくいってるの?」
「うまくっていうのは?」
「だからその、セックスはしたの?」
 飲まずにおいて正解だった。あやうく吹き出していてもおかしくない。タイニーさんはそれほど真面目な表情をこちらに向けている。
「してません。そういう関係じゃないと思います」
 思います、と濁したのは自分でもあたしたちの関係をよく理解していなかったからだ。
「やっぱり、まだなのね」タイニーさんが小さくため息を吐き出した。
 涼紀がトイレから戻ってくると、タイニーさんがおしぼりを渡しながら、「りょうちゃん。今日は帰ってくれる?」
 手を拭きながら、涼紀があたしの顔を見る。あたしは首をかしげる。
「なんか気に障ることしてまいました?」
 涼紀の怯えにも似た表情が、一瞬だけ後輩に戻ったように見えた。普段は気の置けない友人みたいに接していても、やはり根っこのところでは先輩と後輩の確かな繋がりがあって、ときにピンと張られたそれは、涼紀を叱られた子どものような無垢な感覚にしてしまうらしい。
「違うの。ちょっとマリリンと大事なお話があってね。悪いんだけど」
「ああ、なんや知らんけどそういうことなら帰ります。兄さん怒らしてもうたんかと思てあせりましたやん」
 言いながらすぐに笑みを作る。あたしには見せない、くしゃくしゃな優しい顔。ほなごちそうさまです、とだけ言い残し、鈴の音を響かせて、外気を店の中に取り入れるように大きく扉を開けて出ていった。扉が閉まる音がして、風が止んだ。タイニーさんが【closed】のかけ札を持って入り口に向かう。大事な話ってなんだろう、とあたしは残りのブラッディ・マリーに口をつけた。戻ってくるとカウンターの中ではなく、角を挟んであたしの隣に腰かけた。
「あのね、こんなことアタシから伝えることじゃないってわかってるんだけど、余計なお世話だってわかってるんだけど、でも言わせてちょうだい」
 まるで幼い子どもに絵本の読み聞かせをするときのように、丁寧に言葉と言葉を区切って話し出す。
「りょうちゃんは潔癖とか性欲がないとかそういうんじゃないの」
 なんとなく相槌は不要に思えて、黙ってうなずいた。そうすることで続きをうながす。
「りょうちゃんにはね、父親がいなくてね」
 涼紀からは聞いたことがなかった。マリリンと同じね、と付け足す。タイニーさんにはあたしの生い立ちや、いまの仕事のことも全部話している。タイニーさんはお喋りだけど聞き上手で、人に過去を打ち明けさせるなにかがあった。
「昔、アタシがメインの深夜の番組でね、若手芸人の親に話を聞くっていう人気のコーナーがあったの。それでりょうちゃんもアタシの為ならって出てくれた。お母様もなにか言わないとってなっちゃったんでしょうね。涼紀がお腹にいるってわかったとき、親にも相手にも言えなくて、一人で迷って、堕ろす決意をして病院に行ったらもう遅かった。だからしかたなく産んだ。って、そんな話をしたの。りょうちゃんは精一杯おもしろくするためにつっこんで笑いにしたんだけど、結局ディレクター判断でその部分だけはカットされたの。りょうちゃんの様子がおかしかったから、アタシその映像をディレクターさんに見せてもらったんだけど。りょうちゃん、ちょっと涙目だった。おもしろくしようとしてた、実際おもしろかった。でも、やっぱりキツかったんだと思う」
 あたしは反射的に目を逸らした。棚に並ぶ酒のラベルの英字を追いかけた。隣で洟をすする音が聞こえた。もしかしたらタイニーさんは泣いているのかもしれなかった。確認はできなかった。
「りょうちゃんからしたら、自分は望まれていない子どもだって思ったよね。身籠ったとき、お母様や、りょうちゃんの父親がどんな状況だったのかわからないけど、堕ろすって簡単なことじゃないし、本当のところなんてわからないけど。でも、言葉にするとひどく単純でこんなに残酷なことってない」
 身体の奥の方でなにかがうずいて、逆流してしまいそうだった。喉に引っかかって吐き出せない感情。その正体が怒りなのか悲しみなのかそれさえわからなかった。悔しいという感情が一番近いような気がしたけれど、それがなにに起因するものなのかがわからなかった。
「それからりょうちゃんは女の子を抱かなくなった。避妊していたって子どもができる可能性はあるから。堕ろしてしまう可能性がある限りね。自分と同じような子を作らないようにってことだと思う。本人に直接聞いたわけじゃないけど」
 初めて会った日、店を出て行った理由はこれだったのか。避妊具がどうという話をしていたから。望まない子どもができる可能性を少しも考えず、堕ろす可能性を考えず、産む覚悟なんて皆無で、ただ欲望を振り回していたから。怒りの理由がごく恣意的な感情で、ぶつけようのない思いが、黙ってその場を離れるという行為につながっていたのだ。
 あたしの仕事は、涼紀にとって一番忌み嫌うべき職業だ。もちろん避妊具は付けているし、ピルも飲んでいる。出来る限りの対策はしている。だけど低いとはいえ子どもができる可能性はある。
「その話ってずっと前の話ってことですよね? あたしに会う前の」
 震えないように、なるべく平坦を意識して出した声は想定より小さかった。それでもタイニーさんは聞き取ってくれた。
「そうよ」
「だったら、あたしの仕事を話したとき、どうして涼紀と離れさせなかったんですか?」
 今度は語気が強くなる。安定しない声量が心の内を表しているみたいで腹が立つ。
「どういうこと?」
 タイニーさんが不思議そうな表情を浮かべているのが見えたけど構わず続ける。
「涼紀にとってあたしの仕事って、最低じゃないですか。一般的な人が思うよりもずっと……」
 もやもやした輪郭のない塊が内臓を浮遊しているみたいで気持ちが悪い。
「それは違うよ。アタシが言いたかったのはそんなことじゃないの。勘違いさせちゃってごめんね。マリリンがどうとかじゃない。あれはりょうちゃんの個人的な問題なのよ。だから、マリリンがなにをしてようと関係ないの。それよりも……」
 頭に感触が乗る。俯いていた顔を上げると、タイニーさんの手があたしの頭に乗っていた。優しく二、三度離しては乗せる。
「セックスもしないでりょうちゃんとずっと一緒にいられるあなただから話したの。アタシの気持ちも少しは汲んでちょうだい」
 それだけ言うと、カウンターの中に入っていった。
「なんか飲む?」
「強いのください」
 掠れた声で返すと、下品な笑い声が聞こえてきた。

 家に帰っても涼紀はいなかった。どこに行ったのだろう、とLINEを開くと、未読のままの翔とのトークが見えた。
──遅くなってごめん。明日行ってもいい?
 とりあえずそれだけ返すと、すぐに返事がきた。
──待ってる。
 いいよ。ではなく、待ってると言える翔の素直さがいまはうらやましかった。
 ついでに涼紀にどこにいるのかを聞こうと思ったけど、やめた。なにをしていようとどこにいようとあいつの勝手だ。
 化粧を落とすのもシャワーを浴びるのも、面倒だった。窮屈になった下着を外そうと、とにかく服を脱いだ。面倒だったのに裸になってさえしまえば、そのままバスルームに入る気になってしまうから不思議だ。結局、涼紀は帰ってこなかった。

 翌日、翔が仕事を終えて帰宅する時間を見計らって家に行った。ちょうど風呂上がりだったらしく、ルームウェア姿でタオルを頭にかけたまま、玄関まで迎えにきてくれた。
「ごめん髪の毛乾かすからちょっと待ってて」
 あたしをリビングに案内してから、翔はバスルームの方へ向かった。2LDKの部屋は一人で持て余さないのだろうかと余計な心配をしてしまう。綺麗な対面型のキッチンにほとんど物はなく、あまり使われていないようだった。部屋の中央にある二人がけ用のチョコレート色をした革のソファに腰かけた。その前には横に長い木のローテーブルが主張している。全体的にシックでシンプルな印象だった。ミニマリストほど物が少ないわけではないけれど、生活感はあまりない。
 ドライヤーの音が止んで、代わりにこちらに近付いてくるルームシューズが床を擦る音。
「ごめん。お待たせ」
 無防備な格好でも、だらしなく見えないのが翔のすごいところだ。寝るだけなのに上下それぞれ一万円もするルームウェアは贅沢だというあたしの主張は、睡眠の質の向上はなにより重要だよ、と通ることはなかった。
「お酒飲む?」
 翔がキッチンに入り、ウォーターサーバーから水を注ぐ。
「大丈夫」
「水でいい?」
 うなずくと、静かだった空気清浄機から、快適にするための風が慌ただしく吹きはじめた。
 水を入れた透明のグラスをテーブルに置いて、翔も隣に腰かけた。
「ありがとう」
 喉は渇いていなかったけど一口だけ飲んだ。唇に水気を浸透させて滑らかに開くために。
「話があるの」
「うん」話があることに気付いていたらしく、優しくこちらを見つめる。
「あたし、翔に嘘ついてた」
「嘘?」
「普通に働いてるって話したよね?」
「ああ、事務だろ? ちゃんとは聞けてなかったけど」
「あれ嘘。驚かないで聞いてほしいんだけど……」
 翔が居住まいを正す。どんなことでもちゃんと受け入れるとでもいうように。
「風俗で働いてる。男の人とセックスをしてお金をもらってる」
 後半は余計だった。けれど、言葉にしたかった。さらけだしたいと思った。とても翔の顔は見れなかった。スッ、という息を吸う音だけ聞こえて、吐き出す音はしばらく耳に届かなかった。
「どうして……?」かろうじてといった様子でそれだけ口にしてから、我に返ったように自分の言葉を取り消す。
「いや、違う。まずは、話してくれてありがとう。言い出し辛かったよな」
「無理しないで。ちゃんと幻滅していいから」
「幻滅って……。いや、それは驚いたけど、事情があったんだろ? 金か? そうだろ?」
「ううん。別にそういうわけじゃない。東京に出てきて、自分ができる仕事の一つとして、生活のために一番対価の良い仕事を選んだだけ」
 翔がなにかを言おうとして、飲み込んだのがはっきりとわかった。あたしに向けていた視線を外して、目の前のグラスを手に取る。縁にしがみつくようについた水滴をそっと手で拭った。どうしようもない心の内が不必要な行動を引き起こしているのだろう。
「そっか。生活のためか。じゃあもう辞めればいいよ」
「えっ?」
「もう生活のためにそんな仕事はしなくていい。俺が真里の分まで働くから。それでいいだろ?」
「なによそれ。いいわけないでしょ」
「なんでだよ。俺は真里のことがずっと好きだったんだ。話を聞いたいまもその気持ちは変わらない」
「それって思い出補正じゃん? もうあのころのあたしじゃないんだって」
「そんなことない。真里は真里だよ」
「やめて」ほとんど悲鳴に近いような声が出た。空気清浄機の音が止んで静けさがいっそう目立った。
「真里」
「あたしのことなんにも知らないでしょ。間違えたの。ぜんぶぜんぶ間違えたの。あたしはこんな自分のこと好きじゃないし、翔が好きなのは昔のあたしでいまのあたしじゃない」
「そんなこと……」
「否定してよ。誰にも言えないような仕事して恥ずかしいって、そんなの真里じゃないって言ってよ……あたしのいまを肯定なんてしないで」
 翔にぶちまけてようやくわかった。あたしはいまのあたしを好きじゃなかったんだ。口に出して認めることで喉につっかえていた不安も一緒に吐き出してしまったようだ。
「ごめん」
 自分一人だけ気が晴れて、翔のことは置いてけぼりだったのに、翔は大きく首を振った。
「それとね、あたしいま一緒に暮らしてる男がいるの。その人とはなんにもないんだけど、そこを出て翔との生活が想像できない」
 そっか、と小さくこぼした翔の方をまともに見られなかった。いたたまれなくて立ち上がる。コップの中に残った水を一気に飲み干した。
 靴を履いて玄関のドアを開ける。翔がこちらに歩いてくる。
「じゃあね」身体を半分外に出し、振り返って手を振る。
「最後に聞いてもいい?」
「うん」
「真里が一緒に暮らしてる、その男のことが好きなんだよね?」
 どうなんだろう。改めて聞かれると自信はなかった。けれど、少なくとも、と思う。いつまでも固まらない気持ちは、口に出すことで確認できるのかもしれなかった。
「たぶん、好きだよ。セックスしなくても一緒にいられるくらいには」

 点滅していた電灯は切れていた。扉の前に立ち鍵を差し込もうとするのに上手くささらない。鍵穴の場所に外灯からの灯りが届いていなかった。いままで力なく光を放っていた外廊下の電灯は、この鍵穴をちゃんと照らしてくれていたらしい。必要かそうでないかは想像では判別できない。いつでも、なくなってから気付いてしまうのだ。スマホを取り出してライトを点けてから、涼紀の存在に思い至る。ドアノブをひねるとガチャリと音がして回った。やはり鍵は開いていた。
「ただいま」
「おう」と手を振る。相変わらず振り返らないのは、この家に帰ってくるのがあたししかいないから。そんな涼紀の中の当たり前がいまは嬉しかった。
「どないしたん?」
 不穏な気配を察したのか、めずらしく涼紀から話しかけてくる。空気を読むのに長けているのは芸人という職業柄だろうか。
「昨日タイニーさんに聞いたよ」
 涼紀の隣に座る。膝を曲げて、組んだ腕の中に収める。
「なにを?」
「お母さんがテレビに出たときのこと」
「ああ。俺がギリギリ産まれた話か?」
 涼紀が笑いながら言った。
「ギリギリって」
「危ないとこやで。おかんがもうちょい判断早かったら俺、産まれてへんからな。ギリギリや」
「そうだね」
「普通、息子にその事実言うかね? 俺やったら墓まで持って行くけどな。あの映像見せたいわ。ちょっとした恥ずかし失敗エピソードみたいに喋りよったからな。おかん。おもろすぎやで」
 重く受け止めていたはずだったのに、涼紀の口から出る言葉に、あたしはなぜだか笑えた。紛れもなく芸人だった。映像なんて見なくても涼紀が笑いに変えたことは簡単に想像ができる。
「お母さんのこと許したの?」
「許すもなんも、一回も恨んでへんよ」
「ほんとに?」
「おかんな、優しいねん。その優しさが変わってるっていうかおもろいねん」
「おもしろい?」
「俺には父親がおらんかってんけどな、おかんがしょっちゅう男連れてきよんねん。それがめちゃくちゃ嫌やったんやけど、そのときのこと後々聞いたらなんて言うたと思う?」
「なんて言ったの?」
「お父さんがおらんの寂しいやろうからって、父親代わりに連れてきてたんやて。俺のためやってん。やり方間違え過ぎやろ」
 まさか、母も? そんな考えが頭に浮かんだ。涼紀の母親とあたしの母が同じ考えとは思えないし、いまさら確かめようもない。けれど、その可能性が微量でもあることが救いになった。母に聞いてみたい。望む答えじゃなくたっていい。母はこんなあたしをいまでもまだ受け入れてくれるだろうか。
「ねえ、涼紀、あたし本当は風俗で働いてるの」
「えっ? いや、タイミング合ってる?」
「なにが?」
「カミングアウトのタイミング絶対いまじゃないって。流れも全然ちゃうて。びっくりしすぎて情報入ってけえへんねん」
「あはは」
「笑ってる場合か」
「あたし風俗辞める」
「知らんって。お前が風俗やってたこともいま知らされてんねん。それをいきなり辞めるって言われて俺はなんて答えたらええねん」
「お疲れさまって言って」
「スポーツ選手が引退決めたときみたいに言わすな。全然ちゃうやろ」
 ほんまむちゃくちゃやな、と大きく笑う涼紀が好きだった。涼紀を笑わせるための、めちゃくちゃな人生だったのかもしれないとさえ思えた。
「まあ好きにしたらええわ」
「うん」
「俺な、たぶんそろそろ売れると思うねん。いま波きててな」
「そうなの?」
「だから、お前が働きたくないんなら、働かんでええくらい俺が売れたるから。もうちょっとだけ待っとけや」
 たぶん、違う。絶対に違うけれど、見よう見まねで涼紀のまねをした。
「なんでやねん」
 イントネーションが難しい。涼紀みたいにキレがない。平坦なつっこみだった。
「えっ? なんでいまつっこまれたん?」
「ダサいこと言うっていうボケじゃないの?」
「ちゃうやろ。いまのはシンプルにめちゃくちゃカッコよかったやろ」
「ダサかったよ」
「なんでやねん」
 熱の入ったつっこみだ。あたしの好きな涼紀のつっこみ。あたしはずっとそばでこれを聞いていたい。

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