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飛行機で甘やかされる

健康診断が好きだ。

待合室でワイドショーをぼうっと眺める時間も好きだし、「こちらのソファで待ってください」「次は突き当たりの部屋へ」と促されるままに診察室を巡るのも好きだ。

何より好きなのは採血。
注射は嫌いだけど、子ども扱いしてもらえるのはたまらない。

「倒れたことがあるので、ベッドで採血してもらえませんか?」

カウンターには座らず、眉毛をグッとハの字に下げて伝える。看護師さんの目尻が(あらあらっ)と下がる。

「では、こちらへどうぞ〜」

そうして看護師さんの声が心なし高く、ゆっくり、幼児向けになると、胸がときめいてしまう。

(そうなんです! わたし、採血が無理なんです〜!)
降参して腹を見せる犬のようにベッドに寝転がる。

「左腕からでい〜い?」
「は〜い(小声)」

やさしい。うれしい。しあわせ。

すべての言葉に「〜」がつく話し方も、採血後にブランケットをかけてもらえるのも、三十歳のわたしが日常では受けられない優しさだ。

ああ、ずっとここに居たい。
どうして会議で司会をするわたしには、だれも微笑んでくれないんだ。どうして「論点は他にな〜い?」と言いながらブランケットをかけてくれないんだ。


健康な大人は誰も甘やかしてくれない。
だからペラペラの検査着に袖を通すと、期待が膨らんでしまう。もしかして、ここでは優しくしてもらえるんですか。うれしい……。

しかしもちろん看護師さんをこんなプレイに付き合わせてはいけない。
寝転がったらすぐ左腕を出すし、採血後は五分経ったらさっさと移動する。必要以上に甘えない。

はずだったのに、先日、見知らぬ人にでろんでろんに甘えてしまった。


わたしはその時、出張帰りで飛行機の中にいた。

三月の東南アジアは気温三十度を超える。
蒸し暑さと疲れで全身が重い。空港に着くのがギリギリになり、空港内を全力疾走したのも効いていた。

(いいや。深夜便だから寝て起きたら日本だ)
そう思って目を閉じたのに、離陸直後から雲行きが変わった。

離陸から三十分。雨が窓を濡らし、雷が光りはじめた。

厚い雲は今にも飛行機を飲み込みそうで、十秒に一度は稲妻が地上へ延びる。シートベルトサインが消えるどころか、飛行機の揺れは激しさを増して寝るどころじゃなかった。

ジャケットの下で、心臓がドッドッと鳴る。

(飛行機って、こんなに揺れるっけ?)
その瞬間、最大の揺れが来た。

ガガガッ ガタンッ

座席を蹴り飛ばされたかと思った。
テーブルの豆菓子が浮き、手で押さえる。(気持ち悪い)と思ったら手のひらがびしょびしょだった。
震えている。

ガタンッ ガタガタッ プーッ プーッ

(プーッってなに?)
電話を切った後のような電子音が聞こえる。揺れはさらに強くなり、震度四の強さで飛行機がシェイクされるのが十分以上続いた。

(こわいこわいこわいこわい)

どこで鳴っているのか分からない異音がやけに鮮明に聞こえ、座席にしがみついているせいで、機体の揺れがそのまま伝わる。
モニターに映る時計は、さっきから何回も見ているのにまったく動いてくれない。拷問だ。

目の前の景色がスウーッと遠のいては、まばたきをすると眼前に戻ってくる。身体の中から揺さぶられるようで気持ち悪い。

限界かもしれない。
そんなとき隣席の女性と目が合った。


恥ずかしいけれど。迷惑に決まっているけれど。
ずっと頭に浮かんでいた「最後の手段」に手を出す。

「あの、変なお願いでごめんなさい。手を握ってもらえませんか?」

そう言いながら、返事も待たずに両手をテーブルの上に差し出した。

ごめんなさいと言いながら、握ってもらう気満々の態度。
でも許してほしい。これでダメだと言われたら、アルコールを頼んで酩酊するしかない。

「あらあ、いいですよ」

即答してくれたその人は、六十代くらいの女性だった。

温かい両手が、ためらいなくわたしの手を包む。
それだけで、ずっと遠くに行ってしまったような指先や足先の感覚が、じわじわと戻りはじめた。

「ごめんなさい、飛行機の揺れがどうしても怖くて、こんなに揺れるのは初めてで、あ、今日は仕事で乗ってたんですけど」

言い訳がましくベラベラ喋り始めたわたしの話を、その人は真剣に聞いてくれる。

「ベトナムは三回目だけどね、いつもこれくらい揺れるから大丈夫よ。現代の飛行機は乱気流じゃ絶対に落ちないから。落ちるのは整備不良とかそういう時だけ!」

「そうなんですね、絶対落ちないんですね……」
繰り返すわたしの顔色が、よほど悪かったのだろう。
女性の片手がそっと離れて、背中に触れた。

「そうよ、絶対大丈夫。お仕事で来たのね。かわいそうに」

(あ、いえ、出張は自分で希望を出したんです……)
そう言おうと思ったのに、喉が詰まって言葉が出ない。
代わりにボロボロと涙が溢れた。

「あらあら〜」

温かい手が、背中でゆっくり上下した。
採血で倒れたときでさえ、背中をさすってもらうことなんて無かったのに。ここまで優しくしてもらうつもりじゃなかったのに。

みっともない。
恥ずかしさと安堵が、どんどん涙に変わって流れ落ちる。

気を逸らしてくれようとしたのか、女性はベトナム旅行のハイライトを語り始めた。こんな料理を食べた。こういう景色を見た。前回は雨季だからもっと雨が降っていたのよ……。

彼女の話を聞こうとすると、目と耳の感覚が少しずつ戻ってきた。CAの声と、彼女の声と、物音が、均等に耳に入ってくる。

もう大丈夫かもしれない。
そう思えるようになった頃、丁寧にお礼を言って手を離した。


三時間後。
目が覚めると、飛行機は着陸態勢に入ろうとしていた。空港は快晴でとても寒かった。

スーツケースから出したライトダウンを羽織る。
パンツスーツ姿で早朝の空港を歩くわたしは、まるで一人前のビジネスマンだ。

涙で化粧が落ちて、ほとんどすっぴんの顔以外は。


甘やかされるのも、飛行機に乗るのも、しばらく十分です。
心の中でそう唱えながら、足早に空港直結の駅へ向かった。

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