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学びは習慣を解体する~ジル・ドゥルーズ:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


差異と習慣

今回お話しするのはジル・ドゥルーズです。ドゥルーズといえばフェリックス・ガタリとのコンビで「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」を世に出し、ジャック・デリダと並ぶ現代思想の双璧として、私の世代の現代思想の読者にとっては非常に知られた存在です。

一般的には「ノマド」という言葉を流行らせた人かもしれません。ドゥルーズの思想は「ノマドロジー」などと呼ばれ「ノマド」(遊牧民族)のあり方にある種の理想を重ねたものでした。

「ノマド」的なあり方を評価するドゥルーズの主張は、集団とかマクロにまとめあげていく動きに抵抗して、個であることやミクロに細分化していく動きを徹底的に評価していくものでした。

そういうドゥルーズが「学習」について語っているテキストが、ドゥルーズの第一の主著「差異と反復」にあって、それが非常に興味深いので今回のテーマにしてみたいと思います。ノマドの学びとはどのようなものでしょうか。


一般的に学習は「習慣」の習得として考えられています。「技術」(スキル)を身に着けるには習慣的な反復行為が必要不可欠です。繰り返し繰り返し同じことをすることでできることを定着させていくわけです。

たとえば、大工の見習いははじめ金槌やのこぎりの扱いひとつにも苦労をします。道具をどう使ったらよいかわからないし、自分の手を傷つけてしまったりもします。でも、毎日、繰り返し作業に臨むことで次第に使い方に習熟をしていきます。習慣化が完成すれば、どんな釘でも同じように金づちで打てるようになるし、どんな木材でも同じようにのこぎりで切れるようになります。

つまるところ、習慣とは経験を一般化してまとめていくことで身につくものです。釘を打ち、木材を切る、その一回一回の経験は一回きりのものです。今日切った木材を明日も切ることはできません。それでも、明日切ることになる木材も今日と同じように切れるはずです。そうして、確固とした技術(スキル)を身に着けたと言えるわけです。

そして、職場の新人が、それぞれに都度都度、自身の力で道具の使い方を見出していくというのも非効率なので、誰であったとしても、金槌やのこぎりを使えるようにするためにマニュアル化しておくということもできるでしょう。そうして、「理論」が生み出されていきます。理論化されれば、どのような状況においても、同じように適用することができるようになります。このような「業務改善」は働いている人には非常になじみのあることだと思います。

習慣と学習を一体のものとする考え方は英米系の哲学においてなじみのある議論であり、ドゥルーズも基本的にはその議論をスタート地点としています。しかし、ノマドを評価するドゥルーズは、まったく間逆の方向へと進んでいきます。

ドゥルーズは習慣のもつ「差異」を抜き取ってしまう働きに非常に批判的です。この世界に同じことは二度起きない。今日切った木材と明日切る木材は同じ木材ではありません。今日の木材と明日の木材、今日の天気その他の環境と明日の天気その他の環境も同じではありえません。そこにはかならず差異が生じます。その日一回限りの差異が。

ドゥルーズの主張は基本的に日々生じる差異を同じようにまとめていく習慣にではなく、毎日一回限りしか起きない出来事の差異に価値を置くのです。まとめようとする力から逃れていく個、すなわちノマドの力です。「差異と反復」というタイトルのとおり、反復は同じものが繰り返されることではあるけれど、そこにはかならず差異が生じているはずです。差異とは反復するものであり、反復は差異を生じるものなのです。


優れた教師

「差異と反復」には優れた教師についての記述があります。優れた教師とは「私と同じようにしなさい」と言う人ではなく、一緒に実践をする人です。だから、水泳を教える際に前もって陸上で泳ぎ方の理論を教えるような人は優れた教師ではありません。そうではなくて、一緒に水に飛びこんで共に泳ごうとする人こそ優れた教師です。

泳ぎ方の理論はあるかもしれませんが、その理論にはなにひとつ具体的な出来事はありません。実際に泳いでみないことには、水の中で何が起こるかはわかりません。川や海では、同じ波や同じうねりは二度とありません。同じ波は二度とこないし、同じうねりも二度とない。だから、一緒に泳いでみなければ、「いまここ」の波のこなし方とか、うねりの避け方といったものは経験できないわけです。その差異を伝えてくれない人は教師として優れていないとドゥルーズは書いています。

ドゥルーズは一回限りしかないもの、たまたま起きたこと、まさに偶然にこそ高い価値を置きます。同じものの繰り返しには一切興味を向けないので、その意味で、一般的な学習理論からしてみれば異質です。

しかし、これは非常に重要な指摘だと私は考えています。完成された理論に固執していると理論に合致しない事象が生じた際に、事象の方を見過ごしてしまったり、適切に扱えなかったり、時には切り捨ててしまったりします。

そして、キャリアの文脈においては、理論化してしまうことが非常に危険な結果になることもあり得ます。ある人ががこのやり方でうまくいったんだから、みんなこれでうまくいくというような話があったとしても、そんなはずあるわけありません。

「これが最強のキャリア理論だ」「このスキルさえ身につければこの先絶対安泰だ」といったことが言われていたとして、それで成功した人がいたとして、別の人が同じようになるかといえば、そうはなりません。人はみな違います。人生は一回限りですべての人が異なります。それぞれにあったやり方があって、自分のやり方を考えなければなりません。

それを考えずに理論だけ押し付けては危険ですが、「私と同じようにしなさい」と口にしてあえて考えさせないことでビジネスをしようとする人はしばしば目につくものです。


シーニュに出会う

人生は一回限りです。誰と同じ人生も生じません。それぞれに一回限りですから、一回限りの特別な扱いをしないといけないのです。ドゥルーズの学習論で大事なのは、この視点で、普遍性と特異性をわけて考えて、特異性の価値を理解しないといけないということだと思うのです。

ドゥルーズの哲学には「シーニュ」(しるし)という言葉があります。シーニュは一回限りの出来事として現れてくるものであり、人に出会われるものであり、そして、人を強制的に考えさせるもののことです。だから、人生に起きるどんなことでも、人生で出会うどんなものや人でもシーニュになりえます。

習慣化すると人は考えなくなります。毎日、毎日、同じように右から左に流していくようになります。しかし、その習慣を突き破って、「これどういうことなんだろう」と考えずにはいられないことが起きたとき、それがシーニュです。それはまったく偶然に出会われるものです。理由もなく突然に訪れてきて、受け取ってしまえば、もう考えないでいることはできません。

シーニュはこれまでの習慣で扱うことはできません。習慣では抜き取ることのできない差異です。したがって、シーニュを受け止めるにはこれまでの習慣を捨てる必要があります。ただ、これまでなじんできた習慣を捨てるというのは自分に切れ目を入れるような痛みや苦しさもあります。シーニュの訪れは侵襲的なのです。

でも、シーニュの訪れを認めないでいることもまた苦しいものである可能性があります。

ある意味で、このシーニュというのは、これまで順調に生きてきた人が、ふと立ち止まったり、つまづいてしまったり、そういったタイミングで生じている出来事なのです。だからこそ、同じような習慣の中で生きている他の人とは違った契機なのであり、自分自身の人生にとって特異なもの、ユニークなものにちがいありません。シーニュに出会うからこそ、人は自分だけの、一回だけの人生を生き始めるのです。

シーニュを受け止めてしまったのに、これを習慣で処理をしようとすると非常に苦しい思いをすることになります。差異を抜き取ろうにも、その差異はまさに自分の人生にユニークなものだから生じているわけですから、他の誰でもない自分の人生という差異を否定してしまいかねないことだからです。

だから、出会ってしまったシーニュはちゃんと受け止めて、考えて、これまでの習慣を捨ててでも、新しい自分のあり方へと変わっていかないといけません。これこそ、ドゥルーズの論じる学びなのです。


身に着けるべきスキルとは?

ドゥルーズは習慣化によって総合していく動きではなく、脱習慣化によって解体していく動きの法に学びの本質的な契機を見ています。ほかにあまり類を見ないユニークな議論だと思います。

学習理論で言えば、「アンラーニング」「トランジション」といった理論に近いのかと思います。これまで生きてきた形が、様々な理由で、そのままだと維持できなくなっていくプロセス。転職したり、結婚したり、 家族の育児や介護があったり、もしくは病気をしてしまったり。これまで通りにやってくのは苦しいから、手放さなければいけないものがあるようなプロセス。そこに、アンラーニング(学習棄却)とトランジション(自己変容)の契機があります。

ドゥルーズの哲学をキャリア実践の文脈で考えてみれば、シーニュを見逃さないようにすることなのだと思います。日々出会う出来事はすべて一回限りのことのはずです。今日起きたことと昨日起きたことの差異に敏感であり、その差異から学べることを逃さない。そうして、日々、習慣を再構成しつづけることなのだろうと思います。

キャリアにとって技術(スキル)というものがとても大事なことはたしかですし、キャリア業界のビジネスイシューではあるのですが、ドゥルーズのシーニュの議論を踏まえたうえで、身に着けるべきスキルにはどのようなものがあるのだろうとは思います。スキルに陳腐化はつきものですが、ドゥルーズの学びのエッセンスは陳腐化しないなにかなのではと思うのです。

イメージとしてはサーフィンの技術のようなものではと思います。サーフィンのスキルは波に乗るスキルです。波に二度と同じ波はありません。一回、一回の波がすべて初めての経験です。それでも、優れたスキルをもつサーファーは波に乗ることができます。初めての波であっても、ボードの上に立って、バランスをとって進むことができます。

陳腐化しない技術とは、新しい出来事を経験しても、その新しさについていける技術だろうと思います。どんな偶然があったとしてもなんとか自分の姿勢だけは保っていられる技術。まさにシーニュを受け止める技術とでも言うべきでしょうか。

具体的にはどういうスキルでしょうか。たとえば、 メタ認知の技術はそうかもしれません。自分自身を俯瞰して見る技術、自分自身を相対化して見る技術。あるいは、自分の感情を正直に受け止められる技術とか。あるいは、ライティングの技術。バズる文章を書けるかどうかではなくて、自分の経験を言語化して、自分の中で整理したり、他者に伝えられるような技術。そういった技術は陳腐化しないのかなと思います。


【了】


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