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ものがたりをたべて生きていく

幼いころの ものがたり

物心ついた時から、部屋のすみっこや本棚の前で本を読んでいた。

新書なら嬉しいが、同じ本でもかまわない、伝記でも神話でもファンタジーでも戯曲でもいい。同じ姿勢と夕闇で読みにくくて、気がつくと隣室の居間に電気が灯っている。何度呼んでも返事をしない私をそっとしておいた母がちゃぶ台に並べたおかずのお皿が輝いていて、幼い弟がソファーを跳ねまわっていて、音と光が一気に自分になだれ込んできて現実に呼び戻される。

本の世界は、魅惑的で、哲学的で、天空のように広くて、一気にどこへでも連れて行ってくれる装置だ。

キュリー夫妻が研究室で手を握りあって眺めた青い光、こびとたちがつぼから現れてハンカチの上で美味しいお酒を作ってくれるものがたり、女生徒が下着の胸に刺繍したバラの花、時にそれは星の王子さまが大切に育てていたり、眠りから覚めない姫を守るいばらになったりする。

知っていく人生の ものがたり

読むものがホロコーストや戦争に偏ったり、地獄ばかり描く芥川龍之介や死と生を扱う大江健三郎に偏っていっても、シェークスピアを時に暗唱しても、原文で古典をあさって小説を書き始め、高校の図書館や書庫に通い詰めて司書さんと仲良くなっても、どんどん世の中の仕組みや家庭の状況からして、文学部なんか行かせてもらえそうにないということは明らかだった。半分わかっていて、図書館で高校を選んでいた。

母が口癖のように手に職、手に職と言っていたが、どうしても諦められず模試の志望校は勝手に文学部。合格判定が良ければがっかりするという変な占いのようなことをしていると、うちの経済状況を知っていた担任が一枚の募集要綱をくれた。上京してお給料をもらいながら勉強できる。手に職と繰り返す母も納得の看護師になれるという最高の名目だ。看護師って、女が就く職としてはいいお給料が貰えるし、人の役に立つ仕事という素晴らしい理由で東京に行ける。人の役に立つ仕事をしてお金を貯めて、本当に行きたい大学に行く。芥川龍之介研究しか頭になかった私は、志望大学をふたつに絞って本気で数年後受験する気でいた。

本当のものがたり

念願の看護学校に入学し、こっそり自習室で大学受験の勉強もするというひねた生活が変わったのは、看護学概論の授業と看護実習だった。

看護は実践の科学である。

尽くして人のお世話するなんて、素晴らしい名目だが本当のところ私には無理、そう思っていた自分に科学という言葉がなぜかグッとときた。生活を科学し、その人が生きる力や治癒力を高めるということにグッときた。

どうして、こんなにも「何かさせていただきたい」んだろう。

白衣を着て、昨日まで知らないおじさんだった患者さんの前で、何かできることを探す自分がいた。健康への援助をさせて欲しい、勉強したい、急激に目の前にある看護に夢中になり、看護技術のアートに没頭した。人生の中にある触れると温かくて、芥川以上に時に痛いものがたりに夢中になっていった。

そののちの出逢いで、一番の志望校だった大学の文学部で学ぶ幸運に恵まれた。結婚と遅い出産、育児、病気、退職。

痛みを伴う病は、自分が経験するとなかなかに辛いものだった。仕事における人望とは、仕事がまあまあできるコトについてまわるもので、自分にずっと付属するモノではないと思い知るのも、なかなかに辛いものだった。その時の辛さに寄り添って支えてくれたのは、息子とめくっていた絵本やそれまで幼いころから読んで自分に沈めてきた、たくさんの ものがたりだった。そして、癒すつもりで励まされてきた患者さんや同僚、看護学生から受け取ってきた ものがたりだった。

ふたたびの ものがたり

私は、一生の仕事として看護をするつもりでいたので、退職後は自分が自分の人生から切り離されたような気になっていた。自由なようでいて、不自由な気持ちでいた退職数ヶ月後、大きな喜びと喪失があって、余りの心の落ちように伴侶が心配して、大好きな街の、山の上に転居した。うるさいほどに鳥がさえずり、森林のかおりがする。当初、幼い息子を遊ばせながら空だけを見ていた。そこで息子のためのはずが家族ごと大きな出会いがあった。その出会いの中で、ふたたび人の中で、育児という楽しき修行にあって自分を育てなおした。深い豊かな森みたいな絵本の世界に遊び、ファンタジーに迷いこむ息子に案内され、愉快で賢者な人たちと過ごして、再び温かく確かな ものがたりに遭遇した。

するとどうだろう、過去のとらえかたが変わり、自分の人生を愛するようになった。人に求められるからではなく、自分の好きと嫌いがわかるようになった。ふたりめの息子も授かり、子どもが生きるパワー、成長するパワー、お母さんを無償で愛するパワーを日々受け取りながら、仲間と作ったり笑ったり歌ったり、時に社会にアクションを起こし、日々の生活や手仕事に伴う幸せを感じるようになっていった。

そんな中、私にふと浮かんだ願いのような思いつきを、伴侶に話してみた。

「文庫を作りたい」

ものがたりや、本に出会えて没頭できる、小さな親子や、幼い本の虫たちが集う、文庫を開きたい。夫は大喜びのふたつ返事だった。思いついたのは去年だけれど、まあウイルスやら育児やらの都合で、ずいぶんゆっくり始動の支度をしている。

どんな文庫?いつ始めるの?その話はまた、支度次第。




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