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柳田國男の「濫読の弊」(1927年)

昭和2年(1927年)12月に柳田國男が書いた「濫読の弊」(成城学園編『全人』17号)という文章にこんなことが出てきた。

図書館の三つの事業のうち、実際日本に発達したのは二つだけで、一つは少しも顧られていない。何人も発見蒐集し保存してさへ居れば、それで能事をはれりとする。理想的司書でもさう思つてゐるが、今日の如く多すぎる時代には指導が必要である、選択が必要である。(中略)大体、近代の傾向は責任を読者の方に持たせて、何処にでも歩きさへすればよいやうにしてゐるが、それは成熟した人の話で、初めて世の中に眼をあける人にはそれだけでは足らない。これが学校の為とか村の為といふ小規模の社会事業の為に開かれてゐる図書館の特殊な任務である。理想を上野の帝国図書館においてはいかぬ。もつと考へねばならぬ。

大規模図書館には大規模図書館の、小規模図書館には小規模図書館の任務があるはずである、との論である。で、それが「選択」だという。

明治の中期でも否かは本が多くて一生読み切れぬくらいあった。自分が子供の時分は貧乏でもあったから、選択ができず、本をどういう順序で読んだらいいのか全然わからなかった。

私は少年の時には、あんまりいたづらがひどいので、何処かにやつて本を読ませねばならぬといふので、幸に父の友人に中井竹山という蔵書家があつて、先代は若死した人だが、短い間に大へん書物を集蔵した人があつたので、そこにわけを話して一年程托されたことがある。今行つてみると家はまだ残つてゐるが、家の後に土蔵風の建物を造つて下を老人の隠居所にし、二階の八畳二間に本を一ぱいおいてあつた。私は少年だから、私だけ自由にその部屋に入ることを許された。朝入ると昼まで、昼は要ると晩まで、呼ばれなければおりて来ない。小さな窓があつて、その窓の下の長持にもたれて立つて本を読んでゐた。文庫は大部分中井氏の系統の実学風の経書や文学書であつたけれども、その中に気まぐれなものが沢山入つてゐる。(中略)時々主人が来て、また小説を読んでゐるのではないかといふが、そんな時には大てい小説を読んでゐる。そんなことでは二階には上らせないと言はれたが、あんなに色々な本の中に一人おかれたのでは、目うつりして、そんなものゝ他読めるものでない。義とか経とかは長持にもたれながらは読めるものでない。わづか一年ばかりの間であつたが、一生煩はされている雑学風の基礎はその間に作られてしまつた。
ところが、をかしいことには、私のやうな人が明治から大正にわたる人に非常に多い。言はばジヤーナリステツクである。これは確にあの時代の通弊で、同時の今日の通弊と言つてもよい。折角、他にこれといふ長所がなく、読書と理解だけには調練を経てゐる人間を、言はゞ反故にしてしまつたのが明治の文化である。

しかし子弟のためにも、今のようにたくさん本が出る時代、これではいけない。
「馬鹿馬鹿しく本の出る時代」「本で生活しようとする時代」に、その本の選択力のないのは「野蛮国に普選をしいたやうなものであるから、文化の悪くなるのは分つてゐる」(引用者註―すごいこと言うな…と若干引いたのだが、田中義一内閣のもとで執行された初の男子普通選挙はこの翌年2月である)

柳田はいう。子を持つ親は、子が文字を読むから偉いみたいな考えは捨てるべきである。きちっとした本の選択能力、これを指導して身に着けさせるように図書館が変わらなければいけない。大きな図書館、帝国図書館のようなものを理想のモデルにして、いっぱい本を読んだら偉いみたいなことを学校図書館が言うのはやめるべきである。

それで柳田は「内容の分らぬ本を生徒に読ませる。人殺である。実際人殺である」などと激しい言葉まで書いている。

しかしあんまり禁止すると子供は今度は盗み見するようになるから、公園の子供スペースみたいに、ここは読んでよいという場所をきっちり作りこむべきだというのである。

結構意外だったというかなんというか、驚いた。むしろ、一つの系統に縛られない多様な本への目配りと読書こそが、一方で官の科学ならぬ野の科学として、民俗学の豊饒な世界をもたらしたんじゃないのか、と思っていたので、柳田がこんな風に自己の学風を「悪弊」と述懐しているとは思いもよらなかった。

円本時代に大学生に本はたくさん読むな、と説いて回った東京帝国大学附属図書館長の姉崎正治も、円本は慶長年間に出版が日本で始まって以来の害毒とまくしたてた宮武外骨も、似たような地点でにわかに起こった読書ブームに苦い思いを抱いていたのかもしれない。

翻って、デジタル環境下で、とても読み切れないくらいの本を手にできるようになった我々はどうか。読むべき本を体系的にまとめるところまでいくべきなのだろうか。

少し前にNDL館内のデジコレで読んだ一節が、いま妙に思い出される。

柳田國男(近代日本人の肖像より)

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