発達障害疑惑とメンタル病疑惑の人間が、子供の頃の自分の写真を見返してみた感想。

 自分は今、人生史上ベスト3に入るくらい鬱々とした気分だと言える。それほどまでに日々の生活がどこか楽しくない。こんなにも安心安全で食事が美味しくて娯楽がいっぱいの日本なのに、なぜ僕はこんなにも気を病む理由があるのだろうか。その原因を僕はひたすら考えている。
 僕がこんなにも鬱々となっている原因は言語化しきれないくらいあるだろう。例えば、自分の容姿コンプレックス、ボロボロの就職活動、対人恐怖症、金銭事情、家庭状態が挙げられる。最も懸念されるのは、ASDやADHD、学習障害等の発達障害疑惑だ。また、色々自分でも考えてみて、発達障害よりも精神的な病を患っているのではないかという不安だ。
 noteのサービスで、自分の思いを書こうとしたきっかけは、発達障害疑惑というものだった。またここ最近は、発達障害と併発して鬱病なんじゃないかという疑念も自分に抱いた。何をしてもどこか虚しい。明日への希望や光が見えない。学生時代に夢中だった音楽やゲーム、YouTubeといったものに飽きてしまう。夜は不安から心臓の鼓動がどこか早く、なかなか眠れず、いつの間にか朝になっている。
 この不安は何か一つ解決すれば心が軽くなると思っている。就職活動をしているが、自分の夢中になれそうな仕事に採用されれば、幾分か将来に光が差すだろう。
 鬱々とした気を病んでるような状態であるが、僕の将来にきっと光が差すように空元気を出して頑張るしかない。僕に代わって僕の人生を他人に送ってもらうことはできない。僕にしかこのハードモードとなってしまった人生を歩むことができないんだろう。もし、AIがさらに発展して人間の人生を代わりに効率的に操作してくれるような技術ができたら、僕は真っ先にその技術に飛びつくかもしれない。いや、やはり、機械に人生を任せるより、生のリアルの経験を感じる方に価値を感じるかもしれない。
 恥ずかしながら、僕にも皆と同じような感情がある。芸人が面白いことを言えば笑うし、好きな音楽はリピートして聴くし、大ヒットした映画くらいはチェックするし、たこ焼きやお寿司は好きだし嬉しいことがあればスキップもする。また、Twitterの話題を見て辟易とするし、世界情勢や日本経済をニュースで見て不安になるし、煽り運転をされたらイラっとくるし、冷たい態度を取られたら傷つくし、泣いている人がいたらどうしたのか心配する。
 こんな社会不適合者で年齢の割に社会人経験も無く情けないほぼニートの男なわけだが、人並みに感情や感覚があるんだ。こんな自分には感情は贅沢なものだろうか。無感情で痛みに鈍感だったら僕はこんなことを考える必要もなかったのか。何が最適なのかはわからない。でも、これが僕の姿なんだ。AIでも、僕以外の他人でもない、まさに僕が生でリアルで感じていることなんだ。
 かなり長くなってしまったが、タイトルに書いた通り、保育園、小学生、中学生時代の写真を思いつきで振り返ってみた。
 そこには、このような卑屈なことを考えてる今の僕の姿は無かった。写真に映っていたのは、その瞬間を無我夢中で楽しんでいる僕がいた。将来への不安なんて無く、とにかく一生懸命に物事に取り組んでいた。こんな言葉では片付けられないくらい、毎日が楽しくて、友達と遊んで、友達と悪ふざけをしたり、先生に怒られていた普通の男児だったんだ。明日はもっといい日になると信じて疑わず、明日何しようか〜と待ち構えていたんだ。まるで永遠と続く夏休みだった。
 写真を見返して、忘れていた思い出がぶり返してきて、こんな子供だったなぁと思った。ただ、子供の頃からすでに今の僕の姿になるような片鱗はあったと思う。確かに子供時代は遊びまくったし、比較的誰とでも打ち解けることができたかもしれない。でも、その当時からなんとなく人見知りをしていたのは覚えている。容姿のことで他人に馬鹿にされるんじゃないかとか、何を話していいか思い浮かばないと言ったことはあったように思う。子供の頃は深く考えなかったし、人見知りなんてワードは知らなかったし言語化はできていなかったけど、人前に出るのは苦手だったのは覚えている。
 発達障害疑惑に関しても、小6の割には語彙力や文章力は低かった。読書感想文も絵本を読んで提出していたと思う。そのため、中学校に上がると、他教科は平均は取れるのに国語だけ50点前後で全然できなかった。今でも国語は苦手だ。センター試験の国語だけ100点いくか行かないかみたいな感じで、とにかく国弱。文章を理解するのが遅くて時間がなかった。時間をかけると評論は満点取れるけど、時間制限プラス古文漢文もやるとなると制限時間には終わらなかった。つまり、発達障害の中でも学習障害か識字障害もあるのかもしれない。
 子供の頃の写真を見て、国語の話に繋がるなんて話が広がりすぎたかもしれないけど、とにかく僕という人間は一体どうなってしまったのかを詳しく知りたい。いつから、変わってしまったのか、それとも生まれたときなのか、発達障害なのか鬱病なのか境界知能IQ84なのか、境界性パーソナリティなのか、それとも僕が知らないような病気や特性なのか。また、対人恐怖症はいつからそうなったのか。僕は一体誰なんだろうか。とにかく、自分でも整理しきれないくらい頭に渦巻く。自分への疑問や疑惑を解消したい。そのために、自分が歩んできた人生を今、振り返って真相に近づきたいと思っている。
 先に述べたように、自分の人生はAIや他の誰でもない自分にしか操ることはできない。神はサイコロを振らないだろうし、ChatGPTも最適な人生の答えを教えてくれないだろう。世の中には、僕と同じようにたくさんの自我のある人が感情を持って生きている。うまく行かないことの方が多いだろうし、嫌がらせを受けたり、妬まれたり馬鹿にされたりするかもしれない。逆に、捨てる神あれば拾う神ありのように、聖人君主のような大人もいるかもしれない。どんな人に出会い、経験するのか分からないのが人生なんだろう。今後、AIによって人間の人生を代替してくれるようなことはないだろうし、そもそも世の人々が同意しないだろう。僕たちはこの生でリアルの感覚や感情を感じながら喜怒哀楽の人生を送らないといけないのだろう。
 少し話が壮大になりすぎたが、まずは僕は社会で必要とされる人になりたい。できれば人に迷惑をかけたくないし、怒らせたくないし、悲しくさせたくないし、絶望もされたくない。僕の行動が会社や社会にプラスとなって欲しい。だからこそ、自分の特性や特徴、長所短所を理解しないといけないと思う。発達障害なら受け入れるし、鬱病だとしても回復しようとするし、対人関係や容姿コンプレックスがあるなら、努力して解消したいし、とにかく僕の人格という深層心理に近づけるなら受け入れる。
 いま、就職活動をする中で、自分が自分を理解できていないのだから、その不安から上手くいかないし、企業にとって必要とされないと思う。僕ですら、僕自身、今まで人生の大切な時間に何もしてこなかったのだから、特技や自己アピールなんて堂々と言えるはずもない。でも、現状は変えられない。だから今できることをして、自分のパーソナリティを分析して、行動しないといけないと思う。それは厳しい戦いだろう。
 何度も繰り返しとなるけど、誰も僕の代わりになってはくれない。人生の舵を取らないといけないのは、自分。今しんどい状態は人生の中でも荒波だとする。ここで、諦めたら沈んでいくだろうし、必死に舵を取ればピンチから脱出できるかもしれない。そう思って、やるしかない。心晴れる日が来るといいな、と思う。

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