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信ずるに値する理由はどこにあるか―2024年6月の北海道コンサドーレ札幌

 2024年6月のコンサドーレを振り返ってみる。僕が試合についてXでつぶやいた内容を小見出しごとに再編集してまとめたものだ。


1.今月の結果


【J1リーグ】
6/2 vs東京ヴェルディ(A)×3-5
6/15 vs京都サンガ(A)×0-2
6/23 vs横浜F・マリノス(H)×0-1
6/26 vsFC東京(A)×0-1
6/29 vsアルビレックス新潟(H)×0-1
→順位:20位(2勝5分14敗、勝ち点11、得失点差-25)

【ルヴァンカップ】
6/5 vsカターレ富山(H)△1-1
6/9 vsカターレ富山(A)○2-1
→プライムラウンド進出

【天皇杯】
6/12 vs栃木シティ(H)○2-1
→3回戦進出

2.絶対応援する、でもそこに信用はあるか


 どんなに点が取れなくても、どんなに負けても今は「補強さえ完了すれば今のサッカーで勝てる」時期なのだ。補強が完了するまではどんな出来でも「補強さえ完了すれば……」がお題目になる。だからチームに大きな変化はない。本当に数人加わってチームが変わって上向きになるのか、そもそもミシャのチームは新戦力にすぐ頼るようなチームだったのか。でもみんなが信じてるなら何も言いようがない。

 「ケガ人が復帰すれば」と「やりくりが厳しい」って言い続けてる間にシーズン終わるのでしょう。それぐらいの気持ちでいる。今日から急に選手が全然ケガしなくなるとか考えにくい。誰かが復帰しても、誰かが離脱する方がよっぽど現実的な未来だ。経営陣は「ケガ人が復帰すればなんとかしてくれる」と開幕後は思ってただろうし、「補強して新たに選手を送り込めばなんとかしてくれる」と今後は思うのだろう。それを信頼関係と捉えるかは人によりけりだ。

 できなかったことを改善し、基本と原則に立ち返ればチームは良くなるかもしれない。そりゃそうだ。やってほしい。でも鹿島戦からの流れを見ると、それができるチームであると期待できるに足る要素が今のコンサのどこにあるのだろうか。いつまで「このまま続けよう」と応援し、信じ続けたらいいのだろうか。信じるに値する理由はあるのか。本当に「このまま」なのか。

 「仲良しチームじゃダメだ」とキャンプ前に意気込み、「普段の厳しさが足りない」と16節で気づき、勝てないけど勝負にはなる出来に20節にしてなる。今のサッカーを続けてけば多少上向く可能性があるのは分かる。でもキャンプ前に「練習で厳しさが足りない」って言ってキャンプをがんばってたのに、16節まで終えてまた「練習で厳しさが足りない」と反省してる人たちをどうすれば心から信じられるのか。信じる方法を誰か教えてほしい。これは組織の自浄能力の問題だ。

 正直言って、技量が足りない選手もいる。今のサッカーを遂行するには物足りない。でも中には技量ある選手もいる。本当に足りないのは「この道しかない」と念じれば勝てると信じてる「組織の技量」なのだと思う。サポも含めてみんなで信じてまとまって戦う時期はとっくに過ぎてる。

3.日本人が理解できないミシャの「契約社会」思考


 ミシャのコメント読んでると「契約がすべて」という西洋人的思想がにじみ出てる。「集大成」なんて契約書に載ってない言葉遊びは自分には関係ない。空気読んで理解する気もない。契約が残ってる限りは自分の仕事をやるだけ。契約を決めるのは自分じゃなくてめえ(クラブ)だと。

 彼はきっと契約書にサインした以上は勝つために黙々指揮をとる職人なのだ。サポの中でも誤解してる人がいそうだけど、「白旗をあげる」のはミシャの役目じゃない。白旗をあげて監督の進退を決めるのは雇い主の仕事だ。だからミシャに自ら退いてくれと願うのはお門違いなのは肝に銘じるべきだ。

 「責任はすべて自分にある」という言葉を過度に重く見がちなのは日本文化らしいかもしれない。西洋の契約社会では勝たせることが契約なんだから、負けたら責任が自分にあるのは当たり前だろう。野球の落合博満さんには似たものを感じる。

 ミシャは自分のことを監督として雇われてると思ってるけど、コンサは教祖として雇ってる。監督だからクラブの経営に関わらないんじゃなくて、教祖だけど教団の運営には関わらない。このギャップがずっと埋まってないんじゃないか。でも信じないとサッカーは戦えない。コンサの人たちが言いたいのはそういうことだろう。

4.荒野キャプテンを苦しめる『心を整える』の呪縛


 荒野キャプテンは冷静に落ち着くよりも、率先して熱くなることで逆に周りが我に帰ってチームが冷静になるくらいが性に合ってるのでは。仮に揉め事があったときに誰よりも血気盛んに突撃して後輩たちに止められても、僕は「らしさ」を感じる。誰よりもチームに熱く、周りが支えるリーダー像だ。

 日本のサッカーファンのキャプテン像、長谷部誠『心を整える』を基準に定義されてしまった説を提唱したい。長谷部キャプテンに縛られすぎだ。やたら宮澤選手と比べてキャプテンがなってないと言われてるそうだが、全然違うタイプよりもせめて似たタイプである河合竜二さんのキャプテン時代と比べてみてはどうだろう。

5.改めてコンサのサッカーを考える


 「いい攻撃はいい守備から」とよく言われるけど、コンサの場合は「いい守備はいい攻撃から」しか生まれない。今の体制でいくならどんな結果になろうが、どのようにボールを保持してゴールを決めるかを突き詰めるしかない。でも「自分たちのサッカーができた!」ではなく「自分たちの質が相手に対応できていた」と思って、うまくいったときの質を維持または向上しながら相手ごとに対応を微調整してほしい。

 東京戦の後半途中、互いにミスだらけの時間帯があった。選手の質も量も上回ってる東京と同じくらいミスするサッカーで本当に得点が取れ勝てるのか。そこでミスの数だけは下回れるサッカーを設計して戦わないと、結局は今日みたいに質で負けてしまうとも思う。

 一拍ためらった結果、正確なキックをし損ねる選手が目立つ。大﨑選手が勇気をもって前に出せたり、タイミングよくキックできるのは、自信に技量と自信がともなっているから。宮澤選手もそう。なのにコンサは技量と自信が11人そろってることを大前提にサッカーしてる。人数が足りない。

 勝つ(得点する)ために後ろの選手を交代で入れ替えることには賛成だ。後ろが強度保って1vs1で勝てないと陣形もコンパクトにできないし、前にボールを運べない。東京戦の最初の交代で克幸選手から西野選手に替えたのは理にかなっている。前線を代えるだけが点を取る手段じゃない。

 「複数失点してから目が覚めたように躍動するサッカー」がたとえどんなに素晴らしいプレーが多くて見応えがあろうとも、僕は好みではないし、そういうサッカーが評価される世界もごめんだ。

 コンサに本当に必要だったのは、気持ちを映像や言葉で見せることじゃなく、ロジックの再構築だったんだなと改めて感じた。選手みんなしてモチベーションを失ってるわけじゃない。でも努力のベクトルが実力や現実に残念ながら合ってないように見えてしまう。ロジックの問題。

 原選手は、表向きは規則に従って聞き分けのいい優等生なんだけど、実は脳内は全然違うこと考えてるし、目的のためなら規則の逸脱もいとわないキレ者生徒みたいなスタイルで好き。いいんだよ。それで結果出してけばいいし、それをやってこそのプロでしょう。

6.空虚な言葉と日本史で見た景色


 今のコンサは内部の人間が言葉をつむぐほど、その言葉が日本語ではなく情緒や空気として空虚なものになって発信されてしまう。悪循環。いっそ口数減らして「ピッチでの結果がすべてです」って開き直った方がよほど分かりやすいかも。「ケガ人が戻ってくれば」「今のサッカーを続けていけば」「ミシャを信じて」といった念仏を今後も読むことになるほうがしんどい。同じ意味でいいからせめて表現のバリエーションは増やしていこう。

 大日本帝国には聖断があったけど、今のコンサドーレには聖断がない。だから仮にクラブが焦土になろうとも今の体制で突き進むしかないのである。もちろん、それでうまくいく場合もあるだろうし。太平洋戦争末期、天皇の決断に期待するしかないってなった人たちの気持ちが少し分かる気がする。今のコンサにも陛下が欲しいなってちょっと思っちゃう。これぞ日本的メンタリティなのかもしれないけど。

 コンサの悪い状況が続けば続くほど太平洋戦争に関する文献に手が伸びるこの頃。今の「選手が勝ちたいと思ってる」って「兵士や末端の指揮官はがんばって戦ってる」と同じですよな。局地局地で戦えてもトータルで勝ててない。そして組織を支配するのは空気。歴史の応用ってこういうことなのか。

 ただ、正直どんなにサポーターが怒ろうが「どうせ」応援してくれるし、既存スポンサーは金出してくれるし、新規スポンサーもついてくれるから今のやり方が「正義」なんでしょうな。サポが出す金なんぞスポンサーと比べたら「たかが知れてる」から。そして短期的には理にかなってる。

※マガジン『コンサドーレを考える部屋』

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