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31回目の誕生日がすぎ、「庭作り」をはじめた。

 2024年4月9日、31歳の誕生日をむかえた。「誕生日」と「31歳の自分」について思うところを書いていこうと思う。


1.誕生日にまつわるぐだぐだ

 誕生日当日にSNSなどで報告するのがすごく苦手だ。「誕生日です!」とつぶやくのも「誕生日に祝ってもらいました!」とすぐ事後報告するのも、いつからかためらうようになった。誕生日当日の報告には「うっかり見つけたらお祝い義務」みたいなのが発生してる気がしてならない。他人の義務を一つ余分に増やしているような気持ちになる。

 「じゃあこんなnoteで誕生日むかえたこと書かずに黙っとけよバカ」という話だ。ごもっとも。だけど祝っていただいて嬉しくないわけじゃない。むしろありがたすぎて五体投地である。

 自分の年齢を改めて周知するにも誕生日の報告は便利だ。

 SNSでの僕は実年齢より年長に思われやすい。昔は老けていると受けとめて悲しくなったが、今は落ち着いているという褒め言葉にとらえている。しかしながら同世代や年下世代からかなり年齢差があると思われると交流がいっそう難しくなるだろう。

 「1993年生まれだけど、いい意味でより年長に思われる人」になりたい。いや、なってみたい。

 こうしてぐだぐだ考えた結果、思いついたのが「数日後にしれっと誕生日がすぎていた話をする」だった。すぎた後の誕生日に対する祝福義務は当日よりもやわらいでいる気がする。みつけた相手が「ふーん」で終わっても無問題。自分の心持ちとしては悪くない。周りがどう考えるかは知らぬ。

 「しれっと話すにしてはnote書くなんて大がかりですねえ」と頭の中で何者かの皮肉が響く。ごもっとも。ではなぜ書くのか。これから先、僕の誕生日に対するぐだぐだした意識に変化があるのか観察する準備だ。

 毎年誕生日の後にnoteを書けたら自分の内面と周囲の環境がどう影響し合っているか分かるだろう。日記が続かないことはもう知っている。他人の目にさらすことが自分に向けた記録をつける動機になる。書評もその一環だ。

2.31歳の自分は「庭作り」をしたい

 年をひとつ重ねると抱負を述べる人がいるらしい。2024年の僕は「ルーティン」をテーマに生きる新年に決めていた。年始から3か月ちょっとで誕生日をむかえる僕にはそのテーマが実質「31歳の抱負」のようなものだ。

 といいつつ、お気に入りの本を最近再読しているうちに一つかっこつけて抱負にしたいことが新たにできた。

 31歳の僕は意識して自分の「庭」を作りたい。「ルーティン」に加えて「庭作り」。これは批評家の福嶋亮大さんと哲学者の谷川嘉浩さんの影響だ。

 二一世紀においてものを考えるとは、あれこれ試行錯誤しながら、庭を作ることに近いのではないでしょうか。僕は前章で、同時に複数のテーマ(セクション)をもっておくことの重要性を述べました。これは庭のモデルに置き換えてもよいでしょう。個々のテーマ、つまり植物のあいだに「時差」をつけておくと、セクションのあいだで望ましい相乗効果が起こるわけです。
 ときには、土壌の負担を減らすための「養生」も必要です。思考のセクションのなかに、一定期間は立ち入らない領分を確保しておく――そうでないと、あっという間に土地がやせてしまうからです。
 むろん、外界で予想外のアクシデントが起これば、思考=庭の環境も変わり、生育にも影響が出ます。つまり、考えることはどうしても脆弱さを伴っている。かといって、思考=庭を外部から閉ざしてしまえば、植物は窒息します。まめにメンテナンスしなければ、この考える環境はあっという間に荒廃してしまう。園丁のように仕事をする――それは「書くこと」や「考えること」が未完であることを受け入れるということです。

福嶋亮大『思考の庭のつくりかた』p84
※太字はつじーがつけた

 孤独は、自分自身の対話を通じて自己形成していくプロセスだとも言えます。それは、「自分という庭」を育てる試みです。いろいろな他者や作品、趣味で作っているものなどの影響で、私という庭には、いろいろな草木が茂っています。紫陽花が元気に育っているかと思えば、植えた覚えのないかすみ草が咲いていて、注意深く育てたはずのスイカが枯れそうになっているかもしれません。自己というのは、こうした雑多なものの混合体です

谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』p298
※太字はつじーがつけた

 福嶋さんも谷川さんも同じ話をしているわけでないのに、共通して「庭」を例えに使ってるのが興味深い。僕はこの「庭」という表現がとても気にいった。自己や思考といった抽象的な形よりもイメージがつく。メンテナンスする感覚を意識づけしやすい。

 僕の場合、何を「庭」としようか。まずは自分の脳内、思考だ。もうひとつは己の生き方、生活を「庭」と考えてみたい。どちらも僕は何かひとつを育てることに夢中になると、他がおろそかになって枯らしてしまいがちだ。だから「庭」のイメージを用いて養生やメンテナンスも気にかけて生きていこうと思う。

 具体的にどう「庭作り」するかは特に浮かんでない。「おれ、庭作ってるんだ」と心の中で言いたいだけかもしれない。でも僕にとって「庭」というイメージを持って毎日生活することに意味がある気がする。32歳になるころには山県有朋の作庭能力に1ミリでも近づけるように精進したい。

3.参考資料

◎2024年は「ルーティン」をテーマに生きていく。(note)

◎福嶋亮大『思考の庭のつくりかた』

◎谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』

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