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「人それぞれ」の発想が公共圏作りをさまたげる―小関隆『近代都市とアソシエイション』


1.「クラブ」と「アソシエイション文化」

「チーム」と「クラブ」は何が違うんだろう。サッカー好きならば一度は思ったことがあるはずだ。

野球は野球チームだし、バスケットボールもバスケットチームだ。でもサッカーは、サッカーチームとサッカークラブの両方が使われる。その使い分けはそこまで明確ではないと僕は思っている。

しいていえば、チームは実際に試合を戦う選手とスタッフの集団を指し、クラブはチームに加えて経営に関わる社員やボランティア、はたまたサポーターを含めた全体を指してる感じだろうか。

そもそも「クラブ」とは何なんだろうか。それはサッカーが誕生したイギリスでのアソシエイション文化が深く関わっている。

この本では近代イギリスの労働者によるクラブに絞って、クラブとアソシエイション文化が労働者に与えた影響を解説している。

サッカークラブそのものは出てこないが「サッカーは労働者のスポーツ」と言われるように、サッカーと労働者には密接な関係がある。だからこそ「サッカークラブ」という呼び方は定着していったのだろう。

アソシエイションの性格は、以下のように説明されている。

公的機関から独立したセルフ・メイドの民間団体であること、明確な目的を掲げ、多くの場合、明文化された規約に基づいて運営されること、万人に開かれているのではなく、規約に定められた手続きをへてメンバー資格をえた者たちだけの場であること(つまり、open to the pubulicではなくmembers onlyの場であること)。

小関隆『近代都市とアソシエイション』p9

そうして作られたアソシエイションで当初目指されていたのが「合理的なレクリエイション」というものだ。

これは労働者の余暇を健全なものにしようとする試みである。要はパブで飲んだくれて明日の仕事に支障をきたすような余暇ではなく、勤勉で理性あふらる労働者を生み出すための娯楽と教育のバランスがとれた余暇を過ごせるように「上流階級側がしてあげよう」というものだった。

上流階級側としては、労働者は堕落した存在として、労働者自身がアソシエイションを自治できるとは思っていなかったのだ。

しかし現代に生きる我々でも想像つくように、せっかくの余暇を上から命じられるがままに教育を受けさせられるようなアソシエイションに人が寄りつくわけがない。結局、時が経つにつれて労働者自身が娯楽をメインにしたアソシエイションを自治していくことになる。

2.必要だけど誰も作りたくない「現代のアソシエイション」

小関さんは、アソシエイションのことを人々の身近に確保される「公共圏」だとしている。公共圏とは、国家と私的領域(たとえば家庭)との中間に位置して、集団や個人が活動と言論を原則として自由に展開する領域のことだ。

アソシエイションで労働者が得られる一番の効用は、出自や人脈による上下関係が原則として持ち込まれない、平等を基本とする付き合いである。

もうひとつ効用として、集団的自助(コレクティヴ・セルフ・ヘルプ)がある。これは個人の努力だけでは自助の達成が難しくとも、アソシエイションのメンバーとのつながりを活用して自助を実現することだ。

これは別に家計を成り立たせるための相互扶助の話だけではない。娯楽や自己啓発などでも、仲間との結びつきを使って、個人では到達できない可能性を獲得していくのも集団的自助の効用である。

これらを踏まえると、この現代にもアソシエイションは必要であり、その芽のようなものはいたるところに転がっていると思う。

たとえば僕がよく使うTwitterでは同じクラブを応援してるサポーター同士や、Jリーグクラブを愛する者(Jサポ)同士がプラットフォーム上でゆるやかな繋がりを作ってる場合がある。

近代のアソシエイションのように設立趣旨やルールが明文化されているわけではないが、そこには年数を積み重ねることで生まれた暗黙のルールのようなものが横たわっている。そしてそのルールに反した者は、たとえば炎上という形で一時的に排除される。

これが健全なアソシエイションになれる芽かは別としても、ある種の公共圏の芽とはいえるだろう。

このようにSNSでのつながりが容易になった今、あらゆるところに公共圏の芽が存在している。それだけ人々が中間の居場所を求めている証拠ではないだろうか。

本来であれば、僕が愛するサッカーにおけるクラブも公共圏になれるかもしれない。ヨーロッパではそのように機能してるクラブも実際にある。

しかし応援してる北海道コンサドーレ札幌を観察するに、日本のサッカークラブの多くは国家のような権威に近い。クラブとサポーターは一体となった公共圏ではなく、サポーターの集まりがある種の公共圏となっている。これは「クラブに忠誠を近い応援する」という姿勢がどうも日本では上下関係の雰囲気を生んでしまうのからかもしれない。

今は「人それぞれ」の時代だ。人それぞれは多様性とは違い「人は人、自分は自分」だとして他者を尊重してる風に見せ、心底では他者に関心を持たないという姿勢である。

現代はアソシエイションのような公共圏の需要はあるけれど「人それぞれ」だから、公共圏を誰も率先して作りたがらないという状況にあるのではないか。だからこそ何の収益を生むわけではないコミュニティを自ら作って健全に回してる人を僕は尊敬する。

僕も自らが一人で動くのが好きな人間だと思っているが、自分の好きな分野において公共圏を作ることの大事さも非常に感じている。自分が今後趣味の世界でどう振る舞っていくか。もし仮に公共圏を生み出すことがあれば、この本の内容を思い出してアソシエイションを作り維持する難しさを痛感することになるだろう。

なおこの本を読んだきっかけはTwitterで交流のある野茂さんの紹介である。野茂さんは北海道で歴史の研究をしている北海道コンサドーレ札幌サポーターだ。サッカーとTwitterを通して、こうした良質な本を紹介してくれる人たちに出会えることに感謝したい。きっとSNSのない日常で出会えることはなかっただろうから。

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