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フィードバックに大切なのは「そりゃそうだ」の精神だ

 noteもくもく会に参加して受けたフィードバックについて書いた。真新しい発見よりも「俺には分かってたよ」と思われるフィードバックの方が実は大切なのではないだろうか。


1.もくもく会とフィードバック


 パーソナル編集者・セトショウヘイさん主催のnoteもくもく会に参加してきた。60分間ひたすらnoteを書き続け、残りの30分間で書いたnoteをセトさんに見てもらってミニフィードバックをもらうイベントだ。その場で書いたnoteは完成してなくても当然かまわない。

 このイベントが非常によかった。まず60分間もくもくとnoteを書くのがよい。書きたいと思って手をつけていなかったテーマを書くのにこれほどちょうどいい時間と機会はなかった。書いたnoteは近日公開する予定だ。

 今後もくもく会は有料化も視野にいれつつ、継続が検討されているそうだ。ちょっとお金を払ってでも作業時間とミニフィードバックを受ける機会を確保したい人は必ずいるだろう。

 noteが書けた充実感とともに、僕にはフィードバックに大切なものを考えるいい機会にもなった。どんなフィードバックが受け取る側にぴたっとはまるのかという話だ。

 自分がセトさんから受けたフィードバックは主に3つ。それぞれに対して何を思ったか、フィードバックそのものについて何を感じたかを書いていく。

2.ルビをつけよ、線を引け!


 一つ目は「読みにくそうな漢字にはルビをつけよう」である。これは僕が「不埒」という漢字を使っていたときに、セトさんから読み方を聞かれたのがきっかけだ。

 どうやらnoteにはルビをつける機能があるらしい。知らなかった。不埒を「不埒ふらち」、清沢冽を「清沢きよし」と表現できるわけだ。これは便利である。

 noteの機能についてセトさんから学びを得るのは今回がはじめてではない。以前Xで紹介されていた「区切り線を使うと見やすくなる」という技術は、パク……参考にして使わせてもらっている。

 やわらかいエッセイというよりかっちり論じる形式が多い僕のnoteには、見出しに区切り線を引くことで段落が多少なりともスッキリ見えて読みやすさが変化する。今や欠かせない機能だ。

3.なぜ僕は改行の多用がきらいか


 二つ目は「段落の行数が多いときは改行しましょう」である。セトさんはスマホで読まれる人のことを特に意識している。

 この視点は僕に抜けがちだった。同じ段落でもパソコンで見るときとスマホで見るときでは表示される行数がまったく違うのだ。

 しかし僕はnoteやブログでよく見かけるやたらめったら改行する文章が正直好きじゃない。

 改行を多用するとあたかも文と文、段落と段落の間が論理できちんとつながっているように見えやすい。本当は論理がまったくなっていないとしてもだ。「論理つながってます風」の文章が本当に好きじゃない。もちろん僕もそうならないように日々七転八倒している。

 だがよく考えると僕が好きじゃないのは改行ではない。論理のつながりがないのにつながりがある風な文章なのだ。ならば論理がつながった状態で改行すればいい話だ。解決。

 はじめから改行を使うと論理のつながりが見えにくくなる。そこで僕はまずは論理のつながりを意識した文章を書いて整え、その後改行で読みやすさを考えることにした。

 この記事もそうやって書いた。いかがだろうか。え、論理のつながりがないって?それはやはり精進せねば……。

4.まるで論文のように


 三つ目は「イントロダクションをつける」である。僕のnoteの多くはまず目次があり、その後本文がはじまる。セトさんの提案は、目次の前に記事にどんな内容か読者に分かるような文を書いてみてはというものだ。

 これを聞いて僕は「まるで論文のイントロダクションだ」と非常にしっくりきた。学術論文は最初にこの論文が何を論証しようとしており、どんな構成なのかを説明してくれている。それがイントロダクションだ。

 僕のnoteはちょっぴり論文を意識している。例えば、見出しの固まり毎に1つのことしかできるだけ書かない。これはパラグラフ・ライティングからヒントを得たものだ。

 しかし論文を書いているわけではなく、論文の要素をちょっとつまみ食いして論述しているだけだ。論文もどきですらない。一時期話題になった中国のドラえもんくらいのパチモンだ。

 とはいえ論文っぽい感じを取り入れてnoteを書いている僕にはイントロダクションを書くことはすんなり取り入れやすいものだった。この記事でも早速書いた。読みやすくなっているだろうか。

5.「そりゃそうだ」が意外と分からない


 もらったフィードバックを考えてみると全部「そりゃそうだ」と思えるものだった。何か目新しいものや自分のまったく想像つかないものかといえばそうではない。言われたら「そりゃそうだよな。必要だよな」とあっさり思うものだ。

 これは僕のプライドの高さも影響している。「自分でもいつかは気がついたかもしれない」という自惚れである。だから「そりゃそうだ」なのだ。自分もうすうす分かってましたよ、というね。

 だが、実はこれが一番大事なのかもしれない。人間は自分も気づけたと思っているものこそが最も気がつかない盲点なのではないか。

 思いもよらなかった視点が大事なのは誰もが分かる。でも「あーはいはい分かってましたよ」と一見言えてしまうけど、実は言われないと気がつかないものこそフィードバックが必要だ。

 この視点はフィードバックをする側もされる側も持っているとよい。自分がフィードバックする意義も、フィードバックを求める意義もそこに詰まっているからだ。

 そう考えると今回のnoteもくもく会が無料で行われたことは非常にお得すぎる。特段親密な友人でもないのに「そりゃそうだ」のフィードバックを無料で受けれるなんて贅沢にもほどがあるからだ。逆に普段から互いにフィードバックしあえる友人の必要性も切に感じたイベントでもあった。

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