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歴史を使って現代と戦うたった一つの方法―清沢洌『外政家としての大久保利通』


1.タフネゴシエーター大久保利通

明治時代初頭、日本と中国の間をゆるがす外交問題があった。台湾出兵である。

朝鮮と国交を結ぶために強硬手段も選択肢においた交渉を行うか否かで政府が真っ二つに割れた征韓論争は大久保利通らの内地優先論者が勝ち、西郷隆盛などの征韓論者は政府を辞めた。

征韓論を退け内治優先に走ったにも関わらず大久保たちは様々な圧力や社会情勢のため、琉球からの漂流民保護という名目で台湾に出兵する。

これに対して清が台湾は自分の領土だと抗議したことから、日本と清で交渉が行われる。その際に全権として交渉をまとめ上げたのが大久保利通だ。

大久保は親友の西郷隆盛と対立して政府から追い出してまで征韓論反対にこだわった。そんな大久保がなぜ台湾出兵を決断したのか。そして後始末をどのようにつけたのか。当時の資料を元に詳細に論じた骨太な本だ。

高校で日本史を学んだ人からすると大久保は、内政家であって外交官のイメージがないかもしれない。しかしこの本は彼が理性と胆力と責任感を兼ね備えるたくましいネゴシエーターであることを教えてくれる。

もし本編をぱらっと読んでわかりにくい思った人は巻末の解説をまず読むことをおすすめする。大久保の強みや清沢が執筆した背景を知ることができ理解が深まる。

2.明治人が背負った死者の十字架

清沢がたびたび強調しているのは「明治の政治家は決して責任を回避しなかった」という話だ。確かに大久保も火中の栗を拾うがごとく、自ら覚悟を決めて全権として交渉の場に飛び込んだ。

この責任を回避しない明治の政治家の姿勢は他の人物にも共通していると清沢は考えている。伊藤博文や山県有朋、桂太郎などだ。

清沢の考える「責任を回避しない」とはなんだったのか。それは国の命運を背負って安易な軽い決断をしないこと、窮地に陥ったときこそ自分が先頭にたって難局を打開する姿勢だったのではないだろうか。

では明治の政治家はなぜそれができたのか。それは彼らが死者の十字架を背負い続けてきたからだと僕は思う。

彼らは幕末の動乱で身近な人物を亡くしている。親族、師匠、先輩、親友、後輩などだ。戦死もあれば、罪に問われた処刑も、政敵による暗殺もある。

自分たちは「生き残ってしまった」側という自覚が彼らにはあったのではないだろうか。そしてもし「死んでいった」側が生きていたら自分なんかは出る幕がないとまで思っていた。

彼らにとって日本とは今は亡き自分の親しい者たちが夢見ていた未来だった。だからそれを必死に守り抜こうとしたのだ。

そしてその姿勢は「今までの体制を守り抜く」という保守的なものに結びつく。だからあるときには新世代から老害のような扱いを受けることもあるのだ。山県有朋はその典型例である。

3.歴史を用いて今を批評することについて

ところで清沢がこの本を書いたのは1941年のことだ。年末には太平洋戦争がはじまり日本がアメリカ、イギリスと戦うことになる。

実はこのとき清沢は政府から各メディアに渡された言論活動をさせてはいけない人物のリストに名前が載っており、評論活動ができなかった。今風に言えばNGリストというものだろうか。

清沢はアメリカの学校を卒業しその地でジャーナリストになった経歴を持つフリーランスの文筆家だ。

彼は組織への忖度無用なフリーランスの強みを活かし鋭い論評をいくつも発表した。しかもある程度の財産を自分で作れる人間だったので、本当に言いたいことを言える。たとえ政府や軍部にとって耳の痛い話でもだ。

そのため清沢は言論活動を封じられることになる。しかし彼は諦めない。歴史研究に活路を見つけ、日本の外交史に関する論考を発表していく。そのひとつが『外政家としての大久保利通』だ。

彼はまず歴史については資料を徹底的に調べて正確に叙述し論評した。そして、あえてこの時期に発表することで暗に今の日本外交を批判するという技を編み出したのだ。

本書を読んでも当時の政府や軍部への批判は一切ない。それを書いたらまた手足を封じられるからだ。でもちゃんと読めば暗に大久保利通などの明治の政治家たちと、当時の政治家を比較するための材料が提供されているとわかる。

ここで大事なのはちゃんと調査して、何の色気も出さずしっかり歴史を叙述していることだ。

「軍靴の音が聞こえる」や「卑弥呼以来歴史を刻んできた日本に忠誠」などといった、自分にとって都合よく歴史を薄っぺらく使う人たちとは一緒にしてはいけない。

彼の手法は現代にも生きるはずだ。歴史を丹念に取り扱い叙述することで、結果的に現代に通ずるものを見出せる。大事なのは「結果的に」であることだ。決して都合よく現代につなげようと色気を出してはいけない。

僕は今後、創作物で歴史系作品を活用して暗に現代社会を批評する試みが増えるのでは考えている。

現代、いくつかの映像作品で社会批評のような試みがされても、偏った見方だったり権力におもねってるだ反権力だなんだと、真正面から見てもらうことが難しくなる気がする。

しかし「現代の価値観に落とし込まず正確に歴史をおさえる」ことができるのであれば、歴史作品で現代を暗喩することは可能ではないだろうか。

作り手にその意図があるかは分からないが、2024年の大河ドラマ『べらぼう』にはどうも歴史を活用して現代社会を暗に批評することが可能になるのではと思っている。

ただし繰り返しになるが、歴史の解釈はしっかり研究を丁寧に把握した上で行うというのが条件だ。自分の言いたいことのために歴史を曲げてしまっては意味がない。

清沢は日本の日記でも最高傑作のひとつである『暗黒日記』で、たびたび自分が日本を愛する気持ちに言及している。

今で言うところの売国奴とおそらく彼は言われてたであろう。でも批判することが日本を愛してないわけじゃない。愛してるからこそ評論活動を封じられても、学者でないに関わらず彼を外交史研究に駆り立てたのだ。

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