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書けば書くほど「書くハードル」が上がっていく話

 文章は書き慣れてきたはずなのに、書くハードルがどんどん上がっている気がする。前例が増えるからこその弊害だ。そして、なぜ僕が「割に合わない」書評をコツコツ書いているのか。改めて考えてみた。


1.1000字でよかったはずなのに

 2024年に入って毎週noteを書いている、はずだ。1週だけ書けなかった気もするが記憶が定かではないので毎週書けていることにしている。今年唯一続いている習慣かもしれない。

 ここ2ヶ月ほどストレスが非常にかかる日々を過ごしている。息が吸いにくくなったり、逆流性食道炎が再発したりと身体にも影響がある。行きつけの鍼灸に行く頻度も増えた。

 やろうと思っていたこと、やっていたことを休んでもいる。毎週配信していた自分のポッドキャスト『本棚とピッチのあいだ』も更新を止めている。それでも、それでも、noteだけは意地で毎週書いている。

 書き続けていると書くことが習慣になっていく。書くことが苦じゃなくなる。これは一理ある。

 書くこと自体は大変なのに変わりはないが、特別なものじゃなくなる。「特別に大変なことをする」のではなく「日常のひとつとして大変なことをする」ように変化するのだ。

 ところが不思議なことに書き慣れているはずでも僕の中で「書くハードル」がどんどん上がっている。

 一度すごく読まれたnoteがあるから、それくらい読まれるようなものをまた書かないと……というハードルではない。読まれる読まれないは関係なく、自分の中で「この程度の構造や中身はあったnoteにしよう」といった基準が上がっている気がする。

 そもそも僕は「1000字以上書ければいいや」ぐらいに思ってnoteを書いていたはずだった。でもふたを開けてみれば、どのnoteも2000~3000字以上はざらである。1000字程度の記事は数えるほどだ。

 note書き続けて書き慣れることは、前例がいくつもできるということだ。2000~3000字の書評が多くなるとそれくらいの字数の内容を考えようとなり、noteを書く筆が進まない。いや、そもそも筆をうだうだと持たなくなる。

2.書評は「脳の筋トレ」

 読まれる読まれないは関係ない。先ほどそう書いた。それは読まれる記事を書くを一番の目的にすると自分が苦しくなり、書き続けられないことが目に見えていたからだ。まずは書き続ける体力と根気が僕は欲しかった。

 僕が今年noteを書き続ける一番の目的にすえたのは「自分の思考を記録する」ことだ。エモい文章も優しい文章も書けなくていい。

 とにかく自分の脳みその中身、思考回路をどの記事でもさらけ出す。そうすると読み返したときに自分の思考を再確認できる。仮に誰にも読まれなくともそれでいいじゃないか。

 とはいえ人間は疲れているほど見返りがほしくなる。読まれたいなあ。シェアされたいなあ。感想がほしいなあ。そういう気持ちがないわけじゃない。むしろちゃんとある。

 ここからは僕の文章の質はわきに置いた話として聞いて欲しい。僕はnoteで書評を一番多く書いている。でもはっきり言って書評は割に合わない。

 僕のnoteで一番読まれない記事が書評である。サッカー系や、書評ではない読書の記事の方がうんと読まれるし反応がいい。

 もっというと一冊の書評よりも、1ヶ月に読んだ本を並べたまとめ記事の方がよっぽど本の紹介になっている。

 でもこれは納得である。考えてみてほしい。書評なんぞいったい誰が読むのだろうか。

 普段本を読まない人がわざわざ書評を読むか。読むはずがない。では本を読んでいる人が書評を読むのか。いや、書評を読むくらいなら本の一冊や二冊読もうとするだろう。僕がそうだからだ。

 僕だって書評を読むくらいなら本を読むし、書評に頼らなくても面白い本は自分で探せると思っていた人だ。経営学者の楠木建さんの書評集に出会わなければ、今でも同じことを思っていただろうし書評を書くこともなかっただろう。

 もっといえば「コツコツ書評を書いている奴の書評」よりも価値のある書評はたくさんある。例えば、ある本を僕が紹介するよりも、敏腕経営者が書評を書いて紹介する方が何千倍も価値がある。

 そう考えると、どこの馬の骨かわからない状態で書評を書き続けるより、何かのジャンルで成功者になってから書評を書いた方がずっと多くの人に広まるかもしれない。

 要するに「割にあうかあわないか」で書評を書く行為を考えると僕のような人間は圧倒的に割にあわない。書評家を自称しておいて何を言うかという話だが。まあリアルなのだから仕方がない。

 でも僕は書評を書き続ける。なぜかといえば、書評を書くことが自分にとっては「脳の筋トレ」だからだ。

 書評は「読む」「考える」「書く」という3つのプロセスで成り立っている。インプットと思考とアウトプットを一気にこなせるのが書評の特徴だ。

 「読む」「考える」「書く」を均等に鍛え上げている結果、他の記事が書ける。もっといえば誰かの相談に乗ったり、誰かの話を聞いて意見を言うことも書評のプロセスが応用できる。つまり僕の思考の源が書評であり読書なのだ。これを枯らしてしまうと何もできなくなる。

 そうはいっても疲れていて書評を書くプロセスがおっくうなときはある。今がまさにそうだ。だからこうして代わりに愚痴なのか自己分析なのか分からない文章を書いているわけである。

 書き終えて字数を確認すると今回も2000字を超えていた。あーあ、またハードル上がったな。

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