『ヒーローショー わたしが躓いたすべてを当事者研究から眺める』第1章.13

さて、続きを書いていきましょうか。
ずっと部屋に引きこもって暗い音楽ばかり聴いていた私が初めてアルバイトの面接に受かったのは、16歳の頃。近所のコンビニでした。しかし、当時、鬱々としていたのと、対人恐怖症気味になっていた為、研修3日目に辞めることに。理由は、対人恐怖症故に、大きな声で「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」が言えなかったからでした。声が極端に小さい私に、仕事を教えてくれていた店長が見かねて、私にこう言いました。
「仕事って、向き不向きがあるからさ。向いてないんじゃあない?接客。もっと向いている職場へ行ってもいいんだよ?辞めたら?」
辞めろ、とは言わないまでも、向いてないから、辞めたら?と言われると、自分もちょっと、向いてない気がしてきたのと、ひたすら人間が怖かったので、その日のうちに辞めて、3日分のお給料を手渡しで受け取り、給料袋の茶封筒を握り締めて、泣きながら家に帰りました。
それからしばらく経って、ミヤと出会い、ミヤに勧められて始めたmixiでオフ会友達が出来たことによって、私はまた働こう、と決心します。18歳の頃、県内の有名観光ホテルのルームキーパー兼ベッドメイキングの求人を見て、
「裏方の仕事なら、声が小さくても、出来るかな?」
と思い、面接に行きました。それだけでも私の中では一歩前進出来たという実感がありました。また面接に行けたぞ、と。そして、見事採用されました。しかし、就いた仕事事態は労働条件も勤務体制も厳しいものでした。ホテルを利用するお客さんが使用した後の部屋に入って、バスルームとトイレ掃除をし、リネン類を新しいものに入れ替え、ベッドのシーツをピタッと綺麗に張り替えて、最後に部屋全体を掃除機で吸い上げて、埃ひとつ無いぴっかぴかのお部屋にしていくというのが主な仕事でした。その後で、使用済みのシーツやバスタオルの分別・運び出しがあったり、最後には翌日の仕事の為にと、補充品ワゴンの準備や後片付けなどをして終了。やらなければいけないことも、覚えなければいけないことも、最初から大量にあり、尚且つ研修の時から、過酷なノルマがありました。パートのスタッフ一人で、シングルとダブル、最大4人部屋含めて、5時間という短時間で、10~12部屋、片付けなくてはいけませんでした。そもそもスタッフの人数が少なかったことと、主婦層や還暦を越えたスタッフさんがほとんどだったことなどがあり、若い私はなにかと期待やプレッシャーをかけられました。前出した通り、各自担当する部屋数のノルマがあり、勤務時間も5時間と定められていたのですが、これがなんと時給は何故か、4時間分しか支給されない契約になっていたのです。更にそのノルマがあまりに多すぎて、仕事に慣れた先輩スタッフさんでさえ、最低一時間は残業していました。しかし、残業代ももちろん支給されなかった。私は初めてまともにアルバイトに就いたので、そんなデタラメな契約が普通なのだと、最初の頃は思っていたので、明らかにブラックだとは、気付きませんでした。後で親に話すと、今で言うところの“ブラックな職場”だったみたいでしたけど、私はそれでも始めたからにはきちんとやり遂げないと、という責任感から、なんと毎回3時間は残業していました。実質4時間のタダ働き。単純に、私が動作が遅くて素早く掃除やベッドメイキングが出来なかったせいもありましたが、ノルマがそもそも、おかしかったのかもしれません。一部屋ぴっかぴかに仕上げるのに、大部屋だと1時間はかかるのに、一人のノルマが10部屋ですから。シングルルームなら、30分もかけていたら、遅いのですが、どうやったって、自分は30分かかっていました。大部屋は他のスタッフさんとペアを組んでやることが基本でしたが、急な欠勤者が出ると、ペアも組めません。引きこもりだった時と比べたら、運動量が格段に増えたせいか、はたまた、ストレスのせいか、体重が20㎏ 程、ガクンと減りました。仕事量に見合った適正な給料も貰えず、通勤代も出ない。日によっては誰かが体調不良で休み、その分自分のノルマに上乗せされたりもしました。本当に、過酷でした。

ある時には同期で入った主婦の人が仕事についていけず、本気で発狂してしまった場面にも出くわしたこともありました。そのおばさんは、毎回定時であがれない組だったのだけれど、それがかなりの苦痛だったみたいで、残業終わりの翌日の仕事の為の支度中に、若い女性の社員さんに、
「私、もうこんなの無理です。耐えられません。帰りが遅いので、旦那から酷く叱られるんです。もう先に帰らせてください。」
と懇願しはじめたのです。ですが、私と一緒に残業して、まだ一緒に作業をしている手前、社員さんもそれを認めることが出来ずに、断られました。社員さんは厳しい口調で、そのおばさんに、
「仕事は最後までやってから帰ってください」
と、至極真っ当な正論を叩きつけました。しかし、もうそのおばさんは本当に、毎日残業続きで限界がきていたらしく、社員さんのその言葉が引き金になったのか、ついに発狂してしまったのです。その場で、私の目の前で、顔面が崩れるように大泣きし、大声で喚いたのです。
「私、もう無理なんです!帰らせてください!辞めさせてください!」
と、わんわん大泣きして、社員さんに迫りました。けれども、社員さんも私も、突然嵐の様に発狂しだしたおばさんにびっくりしてしまい、社員さんなんかは、動揺してしまっていました。そして動揺したままに、おろおろと、
「無理だとか言われても、仕事なんです!辞めるのは勝手だけど、今日はきちんとやり遂げてくださいよ!」
とおばさんを更に叱責したのです。すると、おばさんの嵐の様な発狂振りが更にヒートアップして、訳のわからない支離滅裂な言葉を口走りながら、目の前の社員さんを力いっぱい押しのけて、本来なら裏方の私達は使用してはいけない表玄関のロビーから逃げ出そうとして、大声で泣き喚きながらお客様用の廊下を走って行ってしまったのです。それには社員さんも驚いていましたが、目の前で大の大人が発狂する瞬間に居合わせた自分も驚いていました。それで、一瞬時が止まったような間が私達の間で流れたと思ったら、社員さんから、
「彼女をなんとかしてくるから、あなたが一人で全部片付けしてから帰って!」
と言い放たれたのです。主婦のおばさんにも社員の人にも唖然としながらも、その日私は黙々と残業をして帰りました。
「裏方の仕事だし、人間関係とかあんまりきつくないかも」
なんて甘い考えでそんな職場を選んでしまったわけだけれど、正社員の人からのプレッシャーには大の大人でも、耐えられなかった。まだ未成年だった私も、そうでした。なにせ私はいつまで経ってもグズで、要領が悪かった。研修を抜けても残業組からは抜け出せず、毎回仕事を終えるのは一番最後でした。なので社員の副主任から、毎回作業中にすごく怒られていました。
「どうしてあなたはいつまで経っても仕事が出来ないの!」
などと怒られながらの体力&スピード仕事に、私は8ヶ月で心が折れてしまった。ある日の仕事終わりに泣きながら、
「明日からはもう来ません、私、辞めます。」
と言って、逃げるように帰宅しました。翌日から、私はニートに戻りました。と言っても、オフ会を通じて交際するようになった初めての彼氏が当時は居たので、完璧な引きこもりには戻りませんでした。ニートが長引けば、貧乏なままの実家では、自分の携帯代さえ、親から払ってはもらえなくなることが分かっていたので、すぐに私は次の仕事を探しました。今度はあの、向いていないと言われた接客業を選んで探しました。何故かと言うと、オフ会などで色々な人と関わる中で、対人恐怖症を治したい、と思ったからです。所謂、荒治療。あえて苦手な環境に身を置き、苦手を克服したいと思ったのでした。


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