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複雑性PTSD診断後に外部を遮断している理由

診断されたあと、毎日自宅で過ごしながら過去のことを思い出すことが多くなった。
正確には、自分の意に反して過去の嫌だった記憶が侵入してくる。
まあ、今に始まったことではないんだがね。

どんな記憶が侵入してくるのか。
それをここで書いても読者にとっては面白くもないだろうし興味もないと思うので、書くまい。
過去の記憶が湧いて出てくることで生じている今の心情を書こうと思う。



私はTwitter(X)をやっているが、他人の投稿を見るのがしんどくなってしまった。
日常の報告、愚痴、落ち度のある人を指して自らの正義をアピールするもの、怒り、悲哀などいろいろ。

愚痴を投稿すると気持ちがおさまるのだろうか。
物申したいのなら当事者本人に言えばいいのにと思ってしまう。
フォロワーを、愚痴を捨てるトイレと扱っているのだろうか。
(ちなみに、自分のことは棚上げしてこれを書いている。)

以前、元義母がストレスを溜め込んでいるようだったため、「何かあればウチに来ていいですよ、愚痴くらい聞きますから」と伝えたところ、毎日のようにやって来るようになってしまい疲労困憊したことがある。
元義母は日常の出来事を何でもネガティブに捉えて他者に依存するタイプだとわかった。
連日、顔をしかめて我が家に現れ、私にとってはどうでもいい、生産性の全くない話を聞かされた。
我が家に向かって歩いてくる元義母の腕に、目には見えない手提げのカゴがかけられ、そこに日々溜め込んだ愚痴という不幸の果実がたくさん詰めこまれている。
そして、その実を私に対して投げつけて帰っていくのだ。
そんなことが続いたとき、私は、自分がゴミ箱やトイレとして扱われていると感じた。
愚痴を聞きますよ、と申し出たのは自分だが、これは不利益にしかならないなと思った出来事であった。

これは、元義母にとっても不利益な行為だったのかもしれない。
愚痴ったところで何も解決しないのだ。
さらに元義母には、愚痴を聞いてもらっている相手に不快な思いをさせてしまっているという自覚はなかっただろう。

自覚なく行なう悪は、自覚がありつつも為す悪よりも悪いという。
これは、古代ギリシャ哲学や仏教でいわれていたことである。
自覚なく行なう悪は、あとで後悔したり反省することができないから、というのが理由の一つらしい。
これについては以下の記事で扱っているのでよかったらどうぞ。


私はトイレとして扱われたくないし、他者の感情を受け止める余裕が今はないのだと思う。
以前は、フォローしている人たちの何気ない日常を見て、そこに人の存在を感じていた。
人の優しさに触れて嬉しかったこともあった。
しかし、今はTwitter(X)を見ることが難しい。
その根底には「誰も信用できない」という心理があるのだと思う。


長くなりそうなので、今回はここまで。
お口直しに猫さんの写真を置いておきます。

人間換算60歳、独身、無職




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