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愛のコリーダ

L'Empire des sens / In the Realm of the Senses (1976)
公式サイト

 大島渚監督、藤竜也、松田英子主演、昭和11年の阿部定事件をモチーフとした官能ドラマ映画。劇場で公開中の修復版を見ました。さすがにぼかし入ってました。残念。制作者も演者もそこは覚悟して腹くくってやってるんだから、ぼかしたら伝わらないじゃないかとは思うのですが。予告編からして白と赤の発色の鮮やかさが印象的でしたので、実際見ても「戦メリ」以上に素晴らしくありがたい修復でした。

 円盤商品もついつい買わないままで、見るのは2000年のリバイバル上映以来でした。セックスしてないシーンのほうが少なく、淫乱と狂気の果てに吉蔵(藤)が生命と一物を定(松田)に搔っ攫われちゃうおっかない話ぐらいの理解でいたのですが、今回はもう少し違う見方もできたように思います。

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 妖婦・淫婦・毒婦と言われ、男を破滅に導くファム・ファタールとされる定。もちろん彼女自身にその素養はあった訳ですけども、少なくとも映画においては吉蔵がちょっかいをかけなければ才能(?)が開花することはなかったのかと思います。藤演ずる吉蔵は鷹揚で優しく、包容力がある。何でも定のやりたいようにさせてやるし、暴力はおろか声を荒げることすらしない。これ、女をダメにする男ですよね。だからかっこいいし、とんでもなくエロい。経血を舐めて「かまやしねえよ」なんて普通言えません。定は定で、序盤は女中然とした華のない佇まいなのに、吉蔵との情を深めるに従って美しさとエロさを増していく。2人ともどんどん浮世離れしていって、人外のセックスお化けみたいになっていく。吉蔵が兵隊の行進とすれ違うシーンは象徴的ですよね。(今ふと思ったのですが、このシーン向かう先は逆ですが、両者とも死に向かっているんですね) 定が起こした事件ではありますが、実は吉蔵が絵図を描いたようにも思える。きっかけを作っただけじゃなくて、殺されて一物を切り取られるまでが吉蔵のシナリオだったんじゃないかと。そう思うと、男の私としては非常に切ない。

 それと、今回見て印象に残ったのが2人の会話の心地よさ。会話の内容じゃなくて、声質や喋り方のことです。2人ともあまり台詞回しが上手だとは思わないんですが、藤の穏やかな低音と松田の舌ったらずな甘え声……何とも官能的なハーモニーです。これも、ストーリーが進むに従ってより濃密に融合していく感覚がありました。そうすると衝撃的なラストも必然として腹に落ちますし、ハッピーエンドとさえ思える。『定吉二人キリ』の血文字も、2人を祝福することのない浮世への決別声明なのかもしれません。

 待合の女中に「みんな変態だって言ってますよ」と言われた定が、「みんなって誰だよ!」と激昂するシーンがあります。ご存じの通り本作は裁判沙汰が絡んでいまして、実際に猥褻とされたのは映画そのものではなく、脚本とスチルを掲載した書籍だったのですが、大島監督と出版元の三一書房社長が被告となり、「愛のコリーダ」事件として二審まで争われました。大島監督は裁判中、このように述べています。

『わいせつ、なぜ悪い』と問いたい。芸術かわいせつかという論争を一切拒否する。わいせつは検察官の心の中だけにしかない。

 芸術と猥褻の線引きをすること自体、意味があるとは私にも思えません。本作は猥褻であるし、ポルノであるとも思いますけれど、だから映画芸術でないと誰が言えるのでしょう。「みんなが猥褻だ、ポルノだと言っている」みんなって誰? みんなってお前1人のことじゃねえの?

 それに限らず、そもそも本作そのものがリョーシキに対してものすごく挑戦的だと思うんです。吉蔵と定が2人の世界に没入し、どんどん浮世離れしていくと前述しました。ワタクシ正直に申しますが、大ッ変に羨ましいです。睡眠も食事もお金も世間も戦争も意識にいれず、愛する人との濃密な時間だけに生きられたらどんなに幸せだろうと思います。現実を断ち切れない私を含む観客を、本作の2人は嘲笑い挑発しているようにさえ感じます。ここまで愛し合えないだろう、ここまで没入できないだろう、と。それはまた、お前ら生ぬるい恋愛、生ぬるいセックスやってんじゃないぞ、生命賭けてみろ! と大島監督に怒鳴られている気分にもなるのです。

(文中敬称略)

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