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【ショート小説】クラシックなブルー

遠くの方から犬の鳴く声が聞こえてきた。甲高い悲鳴のような声は、我が家の犬では無い事だけがはっきりとしていて、どこまでも広がる青空に木霊すら残さず、しきりにキャンキャンと響いていた。
僕は誰も行き交うことのない、田園の端の方に打ち捨てられたガードレールに寄りかかりながら、ジュースを口に含んでいた。ガードレールの柱部に置かれたHI-Cには溢れ出る水分を垂らしたオレンジが嘘のような生命力を醸し出し、秋口近くなった佐賀平野で唯一の生物であると主張しているようであった。横に停められた自転車は、物を言わず目玉のようなライトを僕の方へ向けたまま、只茫然と立ち尽くしていた。
誰もいない。
僕はそう思うと、田園の数百メートル先にある我が家をちらりと見た。我が家は世界から取り残されたように裏庭の竹に隠されて、紺色の瓦だけがその存在を溺れるようにもがいて朽ちている。ここは、佐賀。地図上ではさほど大きくはないが、目の前には広大な大地に狐色の稲穂が一面に揺れている。遥か彼方にバイパスに繋がる国道を車が時折走っているのが見える。まさにさながら廃市である。ポケットに手を入れ、先程一キロ先のコンビニで買ったラムネを口に含むと、そのままHI-Cを流し込む。オレンジの酸味に溶かされたラムネのりんご味が口の中でミックスジュースのように広がって、すぐに喉を通り抜けていった。頭上にはシオカラトンボから勢力を奪い取ったアキアカネが、無数の集団を形成し、暗い雲の様相を呈している。センチメンタルってこんなんかな。僕はポケットからメタリックのブルーウォークマンを取り出して、黒いイヤホンを耳に差し込んだ。再生ボタンを押して再び、目の前を見ると透明がかっていた風景は一気に黄金色を強くした気がした。腕時計を見るとやや斜めがかった日差しに照らされて、G-SHOCKのロゴが色を変えている。時刻は4時半を過ぎていた。稲穂の黄金は風に揺られて、一斉にその風の行先を示していた。ふぅとため息をその風に混ぜると、先程まで僕の中にいたそ酸味を含んだそれはすぐさま風に溶け込んで、何処か遠くに見えなくなっていた。
何もない。
遥かの国道より一台の軽トラックが、この農道に曲がり込んでくるのが見える。タイヤから下半身にあたる部分を泥で汚したまま、段々とその大きさを増している。春から洗われることなく一心不乱に走っているであろう軽トラックは自転車を少し早くした程のスピードで僕の前をゆっくりと通り過ぎて、次第に見えなくなった。エンジン音にかき消された曲はいつのまにか終わり、次の曲のイントロが流れていた。
そう言えば、もうすぐバルーンの時期か。
僕はポケットからタバコを取り出すと、慣れない手つきで口に咥え、火をつけた。この辺りでは、秋に世界的なバルーンフェスタが毎年開かれている。後一カ月もすれば、気の早い一号が大会の練習を始める時期である。タバコの煙が肺に詰まって暴れそうになるのを必死に抑えながら、ゆっくりと息を吐いた。イメージは軽トラック。吐き出された煙は、僅かにその色を残して次第に風に攫われ見えなくなった。太陽光に絆されたHI-Cを口に含むと、先程とは何か違う味がしたような気がした。確かめる為にもう一度タバコを吸ってHI-Cを口に含む。酸味にタバコの苦味が混じり込んで僕の口をドブのように漂っているのがはっきりとわかった。段々と空は青みがかり、目の前の地平の端に真っ赤に燃え尽きた太陽が足をつけ、代わりに何処から来たのかもわからない月が白い歪な形を空の中央付近に浮き上がらせている。ウォークマンはジュディアンドマリーの曲をかき鳴らし、何だか慰められているような気がした。短くなったタバコを口で咥えたまま、空を見上げると、まだ姿を現していない星の代わりにピカピカと点滅して光るものが見えた。僕はそれに手を伸ばすが光はこちらに気付く事も無く、ゆっくりと只ゆっくりと遠くの空へ向かい、いつだか雲に隠れてしまった。
あれには、沢山の人が乗ってて都会へ行くのだろうか。
そう思うと不意に涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、タバコを捨てて踏みつけた。僅かに残っていたジュースを口に流し込んで空き缶を自転車の籠に放り込むと、すっかり暗闇になった農道を帰っていった。
この廃市で
HI-C飲みながらジューC食べたな。がばCやん。
と思いながら、えっちらほっちらペダルを漕いでいた。
空にはいつのまにか、無数の星達が輝いていた。

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