【ショート小説】裏・見ます

日中にひとしきり降り落ちた雨は、その水分を空気中に漂わせて存在している。すっかりと暗くなった帰りの一本道を歩いていると、自分の足元に白い花弁が一面に落ちている事に気がついた。それを踏まない様にやや爪先立ちになると、まるでダンスを踊っているようになった。花弁はコンクリートと雨に打ち砕かれ、その白い色に所々灰色とも茶色ともつかない濁った色を浮かび上がらせていた。今日は本当におかしな一日であった。特別に何があった訳でも無い。只、朝から今まで脳内に濃い霧が立ち込め体温をゆうに超える熱を孕んで張り付いているようであった。こんな日に自分は決まって、一日の事を無理矢理思い出そうとする。朝はどうだったか。思い出そうとすると、濃い霧が目の前に立ち塞がる。今日の事なのにこんなにも忘れるものか。そう思うと、自分は温い霧に手を突っ込んで、無理矢理に弄ってみた。
そうだ。
霧の中から一つ取り出す。朝は間違えていつもより一本早い電車に乗ったなぁ。雨のせいだと思っていた、どんよりとした世界はまだ日の出て浅い時間のせいでもあった。なんだかいつもより人も多かったし、あの電車に乗るのはもうやめておこう。ふと、今朝の路線が自分の乗ったものより後に遅延していた事を思い出した。
自分はゆっくりと足元から線路沿いの道へ目線を移す。澱んだ紫を黒が包んだ色が空に広がっている。足はよろよろとおぼつかない。それでも、遥か眼前に僅かに見えるコンビニの灯りを目指して歩みを進める。足取りは異常にふわふわとして、まるでダンスを踊っているように歩いた。本当に今日はおかしな一日だ。脳内の熱は次第に体全体に回って、遅効性の毒物がゆっくりと体内を壊しているようなイメージが鈍く強烈にこびりつく。

通勤ラッシュ時の地下鉄はいつも以上の満員御礼を迎えていた。自分はいつもより一本だけ早い電車に乗って座席に座って微睡んでいた。雨の日は何故かいつもより電車が混んでいるように感じる。薄目を開けて、目の前に立つ誰かの足をじっと眺める。ベタベタと頬に張り付く湿気が、只々不快感を増殖させるごとく、付き纏ってきて電車が止まる度に、新たに追加される水分は自分の瞼を閉じさせるには充分であった。ぼんやりとした脳内で眠りの岸辺に座り込み、車内アナウンスだけに耳を澄ませる。地下を走る電車の音は既に聞こえなくなり、足元に当たる何かも意識の奥底でもがくだけで、自分へは届かない。気が付かない内に眠りの湖へ足をつけていた。そんな時、急に大きな地震に揺さぶられ、パッと目を開けた。目の前にはバッチリと目を見開いた見知らぬサラリーマンらしき男がしきりに何かを叫んでいる。
早く逃げろ。殺される。
意識は一気にピントを合わせた。満員だった車両には自分とサラリーマン以外は誰もいなかった。自分が起きた事を確認するとサラリーマンは一目散に左手に走り去った。背中を何か冷たいものが掴んで、体内に入り込むのを感じると車両の右手を見つめた。そこには男が立っていた。白いTシャツにインディゴブルーのジーンズを履いた男は所々、赤黒いシミを飛び散らしている。車内の電灯をギラりと反射させて、右手に持った光るものを自分に差し出して引き戻すと、何度も何度もそれを繰り返していた。男は自分の腹をじっと見つめて、笑いもせず、泣きもせず真っ直ぐに光るものを差し出しては引き戻すだけであった。まるで壊れた人形のように見えた。

暫く歩くとコンビニの街灯が目の前に近づいてきた。ポケットに手を突っ込むと、徐にタバコを取り出して中身を確認した。朝からは、余り減っていないように思えたが、念の為買おうと思う。
コンビニに入ると、昨日と同じ品揃えの店内を一通り回遊した。そうして、いつも同じミルクティーを手に取り、レジに向かう。いつもと同じタバコを合わせて買うと、612円を支払って外へ出た。ふわりと外気が自分の頬に当たるとほんの少しだけ脳内の霧が薄らいだ気がする。目の前の一本道は微かなカーブを描いて、自宅の姿を隠している。さぁ、と心の中で呟くと再び歩みを始めた。ゆっくりゆっくり、ゆらゆらゆらゆら、オロオロフラフラ。目の前には街路樹から抜け落ちた白い花弁が無数に散らばり、進路を塞いでいるのが見える。自分はまた、それを踏まない様に爪先立ちで歩いた。側から見れば、ぎこちなく踊っている様に見えるだろう。そう思いながら、ゆらりくらり。そうして、暫く踊っていると、家で待つ娘と妻を思い浮かべた。今日も元気だっただろうか。何か困った事など無かっただろうか。自分は少しだけ弾むように足取りを軽やかにする。
目の前の一本道は未だ自宅を隠したまま、只々地面に落ちた白い花弁を使って化粧をしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?