見出し画像

【ショート小説】ジリジリと夜になる

勾留者の朝は早い。充分な睡眠からぱちりと目を覚ますと、夜と同じく減灯された電球の黄色い灯りだけが世界を照らしていた。自分はばっと掛布を剥ぐと、染み入るような冬の寒さに体を放り出した。そそくさと布団を畳むと、その気配で同室の何人かが目を覚ましたようである。
時刻は午前七時。この部屋にいる五人は並べられた人形のように一列に正座をしている。数分もしないうちに、目の前の廊下に病的な灯りが灯る。聞き慣れた金属を擦り付けた解錠音がした後、湿り気の無い渇いた空気に四つの革靴のカツカツとした音が綺麗に木霊していた。
「点呼ぉぉぉ。」
若い刑務官はいつもより声を張り上げ、鋼鉄の扉越しから、そう自分達に投げかけた。
「631」
「753」
「774」
「818」
「892」
リズム良く五人は各々の番号を叫ぶと、しんと辺りが静かになった。刑務官はネズミでも見るかの如き目で、ニヤついたままこちらを見ていた。自分は睡眠に使ったエネルギーを早く補給したいと思っていると、すぐにその場を離れる刑務官の足が動いていない事に気がついた。ふと、少しばかり遠い位置から声がした。
「753番、出なさい。」
いつも無言で去っていく、ベテラン刑務官の肝が座った声が鳴ると、バチンと部屋の解錠音がした。753番は、表情一つ変える事無く、はいと返事をするとそのまま部屋を出た。刑務官達は無言で再び施錠をすると、いつものように革靴を打ち鳴らして、廊下から出て行ってしまった。
「何だ。あいつどうしたんだ。」
自分は訳もわからず、僅かに動揺したまま皆に問いかける。
「ここから出るんだろ。俺達だっていつまでもここに居る訳じゃないからな。」
774番は静かに言うと、自分と同じく初めての事に興奮したように818番がたたみかける。
「釈放って事か?マジか?あいつが?」
こいつは少しばかり頭が幼稚な奴である。774番は落ち着いた様子で
「まぁ、殆ど刑が確定して刑務所に移動だな。釈放はまず無い。」
そう言うと正座の足を崩した。自分はその挙動が治らぬうちに、皆に聞こえるように囁いた。
「賭けるか?どっちか。」
暫くして朝食を済ませると、作業の時間になった。自分はミスをしたフリをして刑務官に近づくと、袖の下から賄賂を相手の袖口に差し込む。
刑務官はニヤつく顔をこちらに向けると
「禁錮25年だ。」
とだけ言って立ち去った。自分は午後の作業中、ニヤけた顔を取る事が出来なかった。753番あいつ、もう終わったな。あの年なら刑期が終わる頃にはジジイか獄中死だな。部屋のメンバーは、刑務官に似たニヤついた顔を見せる自分を持ち場から気味悪く見ていた。

冬の空気が数日ごとに緩み出した頃、四人は綺麗に正座をして並んでいた。いつもと同じ革靴の音を響かせ刑務官が点呼を取ると、やや後方からベテランの声がした。
「774番、出なさい。」
自分は込み上げる興奮を抑えようと顔を真っ赤にしてる。774番は真っ直ぐ前を見たまま立ち上がって、刑務官と共に外に出た。
「さぁ、張った張った。どっちだと思う。賭けるもんは、メシでも仕事でも何でもいいぞ。」
自分は顔面に溜まった熱を一気に放出させると二人の顔を見た。
「まぁ、刑務所へ移送だろう。」
「そりゃそうだ。」
二人はそう言うと朝飯の準備を始めた。急に熱が冷めたように自分もそうだろなと思うと、そそくさと朝食を済ませた。午前の作業は件の刑務官と接触出来ず、昼休みに袖口に賄賂を差し込む。刑務官はまたしてもニヤついたまま
「娑婆だ。」
と言って自分をずっと見ていた。何てこった。あいつ、無罪になりやがった。自分は午後の作業中、その事で頭が一杯になり放心状態だった。何でだ。あんな奴が釈放されて、今は普通の生活を送っているなんて、あり得ない。こんな事があっていいのか。今まで何の感情も抱かなかった相手に、恐ろしい程の憎悪の波が押し寄せると同時に、その荒波の向こう側に一つの微かな希望が生まれていた。もしかしたら、自分も。そう思うと、不意に笑みが溢れていた。同室の二人はそんな自分を持ち場から、気味悪そうに見つめていた。

勾留所に聳える桜の木に薄く色づいた花弁が揺れだす頃、むず痒い鼻を擦りながら自分は正座をして刑務官を待っていた。隣に座る二人は各々眠そうな瞳を何とか開けるように目の前の扉を見つめている。ガリっと遠くから金属音がトリガーのように鳴ると、いつもの革靴の音が飛び出してくる。ゆっくりと確実に部屋に近づくと、測ったようにピタッと止まった。
「点呼ぉぉお。」
扉向こうの刑務官の唾が飛んで来そうな気がして、無意識に顔を逸らした。
「631」
「818」
「892」
三人に減った点呼は、あっという間に終了し、刑務官はニヤついた目玉を小窓からこちらへ向けている。
「631番、出なさい。」
若い刑務官の後ろから、落ち着いた声がした。
自分は条件反射的に左を向くと、しっかりと目を閉じたままの631番は小さく、はいと返事をして立ち上がった。
開放された鍵が再び静かに閉じられると、段々と小さくなる革靴の木霊もすぐに聞こえなくなった。
「なぁ、もう賭けにもなんねぇが、どっちだと思う。」
自分は、既に寝転がっている818番に問いかけた。
「あぁ、ありゃダメだよ。まぁお前は若いからなぁ。しゃーない。」
818番はそう言って立ち上がると、朝食の準備を始めた。こいつは本当に頭が幼稚だ。631番はここでの生活も、仕事も模範だ。常に穏やかで冷静に全てをまとめていた。奴が禁錮になるとは到底思えない。
自分は何とか縋りたい一心で思った事もないくせに、631番の無事を祈った。
その日の休憩中、自分は意を決して刑務官の立つ横に近づくと、袖口に賄賂を差し込んだ。一心に笑顔を作った自分を刑務官は驚いたように目を丸くして見ると、大きくため息をついて大輪の桜に目を移し、世代的に知らんかと小声でつぶやいた後
「死刑だ。」
と言うと自分を押し返した。
蒼白になった肌に薄い桜色の花弁が一つ綺麗に張り付いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?