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燕は飛んでいく【無職放浪記・エジプト編(12)】

 アブ・シンベルという街には、神殿と湖以外に観光的な場所はない。本当に何もない。
 中心地と思わしき場所には商店や飲食店が軒を連ねているが、端から端まで数分で歩けてしまう程度の狭い範囲だ。あとは住宅街が迷路のように広がっている。

アブ・シンベルの中心街。商店や飲食店が数店並んでいる

 にも関わらず私がこの街に2泊することを決めたのは、流れる空気ののんびりさに惹かれたからだ。
 観光地と言っても、観光客のほとんどが日帰りでアスワンに帰ってしまうため宿泊客は滅多にいない。そのためか、ギザやルクソールのように強引な客引きに出会うことはなかった。

 街ではアジア人が珍しいらしく、道を歩いていると住民からとんでもない高確率で声がかけられる。
 一番私に興味を示してくれるのは子供たちだ。道で遊んでいる子や仕事の手伝いをしている子が、皆こぞって「ハロ、ハロ」と言って手を振ってくる。こちらも手を振り返して返事をするのだが、数歩歩くとまた「ハロ、ハロ」と手を振ってきてなかなか前に進めない。

 大人たちも笑顔で声をかけてくる。「ようこそ、アブ・シンベルへ」「神殿は行ったかい?」という内容がほとんどなのだが、中には「サラバジャ」「ヤマダハナコ」と一体どこで知ったのか謎の日本語を話す人もいた。

 あるおじさんは私の顔をまじまじと見て「エルヴィス・プレスリーにそっくりだ」と言った。宿に戻った後に画像を検索してみたが、一体何を見て私の顔がプレスリーそっくりに映ったのか不思議だった。
 もちろん、それはおじさんのジョークで外国人には全員同じことを言っているのかもしれないが。

アブ・シンベルの街中。朝に撮影したので人がいない

 宿泊した宿も居心地がよかった。
 オフシーズンで他に誰も客がいないということで、宿泊料金を通常の半額以下にしてもらった上、4人は寝られる最上級の部屋に泊まらせてもらった。オーナーは陽気な人で、よく紅茶や果物をくれた。
 観光地にいるとどうしても客引きの“ウザさ”ばかりに目がいくが、この親しみやすさがエジプト人の本来の性格なのかもしれない。
 人と触れ合って温かな気持ちになるのは久しぶりだった。

宿泊した宿の部屋。壁に飾られているのはオーナーが撮影した写真

 街に滞在した2日間は、特にやることを決めず街や周辺の砂漠をぶらぶら歩いて過ごした。ただ、夕方には決まってナセル湖沿いに行って夕日を眺める。ナイル川沿いの街でもそうしていたが、夕日鑑賞はエジプトに来てからの私のルーティンとなっている。

 カイロからアブ・シンベルまで南に下ってきたエジプトの旅も終わりを迎えようとしていた。明日にはトルコに向かって移動を始めなくてはならない。

 私は夕暮れのナセル湖を眺めながら、エジプトの日々を回顧していた。
 空港からカイロまでの乗り合いバスに始まり、異様な雰囲気に包まれた死者の街、悠久を感じたピラミッド、暑さに振り回されたルクソール、毎日眺めたナイル川、なんでもない場所で楽しく過ごしたアスワン、そして最後の街アブ・シンベル。

 たった11日間のことだったが、濃密な日々を過ごした充実感があった。

 一方で、何かをやり残しているような引っかかりも心のどこかで感じる。

 本当にこのままエジプトを去ってしまってもいいのだろうか?
 せっかく遠くまで来たのだから、悔いのないようにもう少し滞在を続けてもよいのではないだろうか?

 悶々と考え出した時、不意に湖沿いの草陰から一斉に鳥の群れが飛び出した。

 ——何の鳥だろうか。

 よく観察してみると、ブーメランのように折れた翼の特徴的な形状から、どうやら燕かそれに似た種の鳥のようだった。
 群れから離れた1羽が、私のすぐ近くで滞空を始めた。翼は一切動かしていないのに、うまく風を捉えて、その場に浮かんだままの状態を維持している。
 しばらく滞空していた燕だったが、強い風が吹くと態勢を変えて一気に飛び上がった。弧を描くように反転すると、その小さな体はあっという間に空の向こうへ消えてしまう。

かろうじて撮影できた一枚。燕に似ていたが、正確には不明

 なんと鮮やかな飛行だろう。
 私は燕が飛び去った先の空をしばらく見つめ続けた。

 あの燕たちはこの湖周辺で生きている群れだろうか。それともどこかから旅をしてきて、湖で休んでいたのだろうか。
 どちらかはわからない。だが、彼らの軽やかな飛行を見た私の心の中では「次の国へ行こう」という気持ちが強くなった。

 もしもこの国でやり残したことがあったとしても、また来ればいいだけの話だ。今はただ、前へ前へと旅を続けよう。

 燕のように軽やかに——

 最後の夕日が湖の向こうに沈んでいくのを見届けると、私は大きく伸びをした。

エジプトで見た最後の夕日

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