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「5リラ50クルシュの優雅な船旅」は現代ではいくらかかるのか?【無職放浪記・トルコ編(6)】

 旅人たちの“バイブル”として、時代を超えて読まれ続けている名著『深夜特急』。

 著者の沢木耕太郎氏はロンドンを目指す旅の途中でイスタンブールにも訪れるのだが、その章で「5リラ50クルシュの優雅な船旅」という過ごし方を紹介している。

 まずイスタンブール旧市街のエミノニュという港でフェリーに乗り、15分ほど船に揺られてアジア側のハレムという地区へ行く。ハレムでは発着所の横にある売店でドネル・ケバブを購入し、すぐにエミノニュへ戻るフェリーに乗り込む。
 フェリーの料金が2リラ、ドネル・ケバブと船上で飲むチャイが合わせて3リラ50クルシュのため、合わせて「5リラ50クルシュの優雅な船旅」という訳である。

 『深夜特急』の熱心の愛読者である私は、もし同じ船旅を現代でなぞるといくらになるのかと気になっていた。と言うよりも、沢木氏が見た景色と同じものを自分も見たいと思ったのだ。

      *  *  *


 私がフェリーに乗るためにまずしたことは、イスタンブールカードの購入だった。
 イスタンブールカードとは日本でいうSuicaやPASMOのようなもので、バスやトラム、地下鉄など公共交通を利用する際に、乗車賃をカードから引き落とすことができる。

公共交通で利用できるイスタンブールカード


 カードを購入できる機械は駅やバス停などあちこちで見かけるほか、売店でチャージすることもできて利便性もよく、市民のみならずイスタンブールを訪れる旅人も利用している。

 もちろん市民の足として使われているフェリーも、このイスタンブールカードで支払うことができる。私はエミノニュの発着所に設置されていた黄色の機械で50リラ分がチャージされたカードを購入した。

 フェリーに乗船する際に、改札のような場所でカードを機械に通す。この時に、カードから引き落とされた金額はおおよそ7リラ50クルシュだった。当時とはレートが大きく異なるとはいえ、いきなり「5リラ50クルシュ」を超えてしまったことになる。

 フェリーに乗船しているのは半分が観光客、半分が地元の住民といったところだ。観光客らしき乗客は眺めのいい舳先のベンチで風景を楽しみ、船べりで写真撮影に励んでいる。船内のベンチでスマホをいじって出航までの時間を潰している人たちは地元住民だろう。

船首のベンチに座る乗船客

 船内には売店もあり、サンドイッチなどの軽食や飲料を販売していた。その中には当然チャイもある。値段は7リラ。私は10リラ札を店員に渡すと、ガラスのグラスに入った熱々のチャイを受け取った。

 トルコでは真ん中がくびれた形をしている「チャイグラス」でチャイを飲むのだが、取っ手が付いていない上に耐熱性でもないため、淹れたて熱々の時はグラスの縁を持ってちょっとずつ飲むしかない。
 不便と言えば不便なのだが、最初に少しずつすすっている時が一番おいしく感じられる。あらゆる日用品には、使い続けられている理由があるのだろう。

トルコのチャイグラス。真ん中がくびれたような形をしている

 フェリーはエミノニュを出港すると、ガラタ塔が見える新市街を左手に水上を進んで行く。私は船べりに体を預けて、変化していく風景を楽しんでいた。

 それにしても風が気持ちいい。
 イスタンブールは真夏の8月でもそれほど暑くはないのだが、それでも少し歩けば汗は出る。海を駆け抜ける風を全身で受け止めて、火照った体がほどよく冷やされていく。

船上から見た新市街。ガラタ塔がランドマーク

 隣では、周囲に群がるカモメにパンくずを投げるのに夢中になっていた少年が、強い風に帽子を飛ばされそうになり慌てて手で抑えていた。私と目が合うと「危なかったぜ」とでも言うように、帽子を両手で掴みながら目と口を大きく開いた。

 船は弧を描くようにボズポラス海峡を進み、10分ほどでアジア側のハレムに到着した。『深夜特急』では「十五分ほどの航海」とあるが、当時よりもいくらか航海時間が短くなっているのは船の性能の違いだろうか。

 ハレムに上陸すると、発着所周辺にはちょっとした商店街があった。その中にドネル・ケバブを売っている店もあったので、一つ購入する。
 値段は22リラ。
 ドネル・ケバブはヨーロッパ側では安い店でも30リラはしたので、どうやらアジア側の方が物価が低いらしい。

ハレムの発着場周辺には商店が並ぶ
肉を削るケバブ屋の店員

 次の便が来るまでにハレムの周りを散策してみたのだが、どうやらこのあたりはベッドタウンになっているようだった。崖の上には住宅街が並んでいて、生活感に溢れている。
 ヨーロッパ側で商売をしていた人たちが、一仕事を終えるとフェリーで海を渡ってアジア側の家に帰ってきているのだろうか。

ハレム地区の様子。丘の上に住宅街が広がっている

 帰りのフェリーでは、なぜか料金が変わり1リラ安い6.5リラだった。私は売店でもう一杯チャイを購入すると、行きとは反対側の船べりに行って再び海風を楽しんだ。

 フェリーの往復で14リラ。
 チャイが2杯で14リラ。
 ドネル・ケバブで22リラ。

 2022年の“優雅な船旅”にかかった金額は、合計で40リラとなった。
 当時のレートでは1リラ=20円程度だったので、5リラ50クルシュは約110円となる。
 現在のレートでは1リラ=7.5円なので、40リラでは約300円だ。
 どうやら沢木氏が旅をした頃から、3倍近くの値段になっているらしいことがわかった。

 ——『40リラの優雅な船旅』、か。

 私は値段がキリのいい数字になったことが満足だった。
 この船旅は、他人の足跡を辿っただけに過ぎないのかもしれない。だが、こういう旅の楽しみ方もあるのかと新しい学びを得た気分だった。

今回の船旅で利用した船

 学びと言えばもう一つ。
 今回の船旅にかかった金額は40リラで間違いはないのだが、私はこの旅の中で50リラを“勉強料”として余計に失っていた。

 何があったのか?
 実はイスタンブールカードを購入する機械はお釣りが出ないのだが、私はそうと知らず50リラのカードを購入するために100リラ札を入れてしまったのだ。

 結局、100リラ札が返ってくることはなかった。
 当然、差額であるお釣りの50リラも。

 エジプトでは「ノーチェンジ」と言ってお釣りをちょろまかそうとしてくる店主に出会ったが、黄色の機械の向こう側に、彼らの顔が見えたような気がした。

イスタンブールカードが購入できる機械。「ノーチェンジ」なので注意

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