イスタンブール新市街へ【無職放浪記・トルコ編(7)】
イスタンブールという街はボスポラス海峡によって、大きくヨーロッパ側とアジア側に分かれている。
さらにヨーロッパ側でも金角湾を境に新市街地と旧市街地に分かれており、二つの地区をガラタ橋が繋いでいる。
私はイスタンブールに来てから旧市街地のスルタン・アフメト地区を拠点としていたが、5日目になって新市街地に移ろうかなと考えるようになった。
旧市街地にいると、どうしても歴史的建造物と古い石造りの建物ばかりを目にする。もちろんそれは過去から保存されてきた大切な風景なのだが、一方で中東屈指の商業都市として発展してきた部分もあるはずだ。
私はその現代のイスタンブールの姿というものを見たくなったのだ。
午前中にバックパックを背負って宿を主発すると、開店前のひっそりとしたバザールを通り抜けて港のあるエミノニュに出た。ここからガラタ橋を渡って、新市街地側へ向かう。
どの時間に来ても、ガラタ橋には釣り人の姿がある。何の魚が釣れるのかと、しばらく待っていたことがあるが、ついぞ釣り上げる場面に出くわすことはなかった。しかし、時には橋を埋め尽くすほどの釣り人がこの場所に集結することから、それなりに魚はいるのだろう。
ガラタ橋を通り抜けると、新市街側の港であるカラキョイに出る。周辺には魚料理を出すレストランが並んでいるが、料理はやはり観光地価格で、私のような貧乏旅行者が気軽に入れるような店ではなかった。
カラキョイから市街地へ入るためには、トラムや車が入り乱れる交通量の多い道路を通らなくてはならない。普通に抜けようとしても時間がかかるため、地下道を歩くと楽に渡ることができる。
市街地は丘の斜面に建てられており、しばらくは急な坂や階段が続く。ヒィヒィ言いながら登っていくと、新市街地のランドマークであるガラタ塔に出る。
ガラタ塔は石造りの塔で、高さは約66m。かつては牢獄として使われていたらしい。今では人気の観光スポットで、昼は長蛇の列ができて夜もライトアップ目当てに多くの観光客が詰めかける。
入場料は100リラ(約800円)で、私もイスタンブールに来てすぐの頃に一度登ったことがある。最上階からはイスタンブールの街並みが一望できるのだが、私は何枚か写真を撮っただけですぐに降りてしまった。
高い場所からの景色は大好きだ。しかし、東京のスカイツリーやパリのエッフェル塔のように料金を支払って登った場所から見る景色は、なぜだか心が動かないことが多い。ガラタ塔でも、それは変わらなかった。
ガラタ塔を過ぎると、やはりしばらく坂道が続く。根気良く歩き続けていくと、トラムの路線が走る広い通りに出た。
そこはもうヨーロッパの中心都市のような街並みだった。綺麗に舗装された道の両側には、デパートやハイセンスな服飾店が軒を連ねている。
——久々だなぁ、この感じ。
しばらくオールドタウンばかりを歩いていた私は、久しぶりに味わう都会の空気に胸を躍らせた。都会っ子というわけではないのだが、繁華街に来ると気分が盛り上がるのだ。
私が歩いているイスティクラル通りは、言ってしまえば“トルコの銀座”のような場所だ。流行の最先端が、この道沿いに集まるという。
店を冷やかしながら歩いていくと、中央に大きなモスクが建つ広場に出る。イスティクラル通りの始点がガラタ塔なら、終点はこのタクシム広場だ。
——結構歩いたが、ようやく着いたか。
旧市街ではブルーモスクのある広場が中心地だったように、新市街ではタクシム広場が起点となる。周辺には安宿やホテルが集まっているというので、ひとまずこの場所を目指して歩いてきたのだ。
広場から南東に下った場所に1泊300リラ(約2400円)のシングルルームを見つけた私は、バックパックを置いて再び街の散策を始めた。
イスティクラル通りから一本裏に入ると飲食店が数多く並んでいる。しかも地元客向けの気軽に入れそうな店が多い。路地にテーブルが置かれ、午後の早い時間だというのにビールやワインを楽しむ人たちで賑わっていた。
旧市街地では、魚料理のレストランで後味の悪い思いをしてから店で酒を飲むことをやめていた。だが、この辺りならお手頃な値段で飲めそうだ。
私はテラス席に座ると、女性店員にビールを一杯注文した。
ジョッキに注がれたビールが出てきて、私は思わず舌なめずりしそうになる。何しろ、旅に出てから飲むビールは瓶ばかり。こうしてジョッキの生ビールを前にするのは日本以来だったからだ。
グラスに口をつけ一気に傾けると、程よく冷えたビールが炭酸の爽快感とともに喉を駆け抜けていく。
——うっまぁあああ!!!?
私は日本にいた頃からどちらかといえば瓶ビールをちびちびと飲む方が好きだった。だが、この一杯で気持ちは大きく“生党”に傾いた。朝から歩き通しで疲れた体が水分を求めていたというのもあるが、とにかく衝撃的なビール体験だった。
気持ちよく一杯目を飲み干した私は、追加の一杯とミックスフライを注文した。旅先ではケチの一歩手前の倹約家である私だが、酔いが回ると財布の紐も簡単に緩んでくるのだ。
値段を見ずに注文していたのでいくらになるかと恐れていたのだが、会計はなんとたったの100リラ(約800円)足らずだった。
べらぼうに安いというわけではないが、つまみだけで100リラ以上する旧市街地の観光客向けレストランを見てきた私からすれば、かなりの破格だった。
気を良くした私は、別の店に移動して赤ワインとナッツを注文した。店のハシゴをするのも日本を出てきて以来のことだった。
出てきたワインを一口、二口飲んだあたりで急にあたりが暗くなった。と思うと、急に強い雨が降り注いでくる。地元民にとっても珍しいことなのか、次々と店から出てきては雨に手をかざしていた。
雨音を聞いていると、なぜだかぎゅっと胸を締め付けられるような気持ちになる。なぜだろうと考えていると、あることに気がついた。
——雨に降られるのも久しぶりなんだ。
極端に降雨量が少ないエジプトではもちろん、トルコに来てからも雨が降る日はなかった。久しぶりに空から降り注ぐ雨を見て、どうも心のどこかで感動しているらしい。
久しぶりの都会。
久しぶりの生ビール。
久しぶりのはしご酒。
そして久しぶりの雨。
ほんの数キロ移動をしただけで、ガラッと世界が変わったようだった。
もちろん、天気は偶然の事象だろう。だが、私には自分が環境を変えたことが遠因となって雨が降ってきたかのように思えたのだ。
「これだから、旅ってやつは」
ほろ酔い頭の私はひっそりと笑いながら、ワイングラスを傾けた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?