悠久のピラミッド【無職放浪記・エジプト編(3)】
カイロ市内からエジプトの象徴とも言える『ギザの3大ピラミッド』の麓までは、遠いようで近く、近いようで遠い。
砂漠を越えた先にそびえ立つようなイメージかと思えば、実は街のすぐそばに立地している。しかしカイロから地下鉄で最寄りのギザ駅に行くと、そこから約7キロ行かなければ辿り着けないのだ。
私はギザ駅を降りてすぐ目の前にピラミッドが立っているだろうと思い込んでいたので、駅前で途方に暮れることになった。
——7キロか……歩いて行くには遠すぎるけど、タクシーは使いたくないんだよなあ。
まさに7キロという距離は、車だと近いが歩くと遠い絶妙なものだった。
駅の周りをウロウロしていると、私に声をかけてくる人がいた
「ピラミッド?」
その男性は小学生くらいの子供を連れていた。話を聞くと、どうやらエジプト北部の街アレキサンドリアからピラミッド観光に来たらしい。
エジプト人もピラミッドを観に来るのかと思ったが、日本人が京都観光に行くようなものだと考えれば不思議ではない。
乗り合いバスで近くまで行くというので、一緒に乗せてもらうことにした。料金はカイロ市内よりさらに安い4.5ポンドだった。
バスの中では親子と会話をして過ごした。父親の名前はアブドラで、息子の名前はセリといった。アブドラ氏は英語の教師をしていて、セリ君は12歳らしい。
楽しく会話をしていたのだが、途中から雲行きが怪しくなっていく。アブドラ氏が盛んに自分たちと一緒にピラミッドを観光しようと誘ってくるのだ。
「ピラミッドには外国人用の道とエジプト人用の道がある。エジプト人用の道は安く入ることができて、しかも安全だ。外国人用の道は高いし、歩くのも大変。私たちと一緒に行けばエジプト人用の道に入ることができる。君はどっちの道を選ぶ?」
私は初めアブドラ氏の話を素直に聞いていたが、「エジプト人用の道」が出てきたあたりから、胡散臭さを感じるようになった。いかにも“騙すため”に作ったような話ではないか。
「私は1人で行きます」
本当にアレキサンドリアから観光に来た親子だった場合のことも考えて、私は丁重にお断りをしてバスを降りたのだった。
※追記
ギザ駅で話しかけてくる親子連れはやはり詐欺のようでした。調べてみると、いくつか被害も報告されているようです。ギザ観光に訪れる際は気をつけてください。
* * *
映像や写真で何度も目にしたことのある光景を実際に見た時、人の反応は大きく二つに分かれると思う。
一つは、期待値が高かっただけに「なんだ、こんなものだったのか」と落胆する反応。
もう一つは、予想を上回ってきたことで「なんだこりゃ」と衝撃を受ける反応だ。
今回に関して、私の反応は間違いなく後者だった。
——なんだこりゃ⁉︎
目の前にそびえ立つ四角錐の建造物は、想像を超える圧倒的なスケールだった。間近で見ると、まるで巨大な壁のようだ。
ピラミッド。
古代エジプトに建設された王の墓だ。
その中でも特に有名なものが『ギザの3大ピラミッド』で、クフ、カフラー、メンカウラーの3人の王のピラミッドを指す。
クフ王はカフラー王の父親で、メンカウラー王はカフラー王の子にあたる。つまり親子三代の墓が並び立っているのだ。
それぞれの高さはクフ王のピラミッドが139mで最も大きく、次にカフラー王の136m、メンカウラー王は61mと最も小さい。
時代を経るごとに小さくなっていくのは、偉大な親を越さないという謙遜の心か、あるいは単に予算が縮小していっただけなのか。
その大きさからクフ王のピラミッドばかりに目が行きがちだが、間近で三つのピラミッドを見比べてみると、それぞれに特徴があることがよくわかる。
カフラー王のピラミッドは頂点付近に化粧石が残っており、かつては綺麗に覆われていたのだろうと建設当時の姿を思い起こすことができる。
最も小さなメンカウラー王のピラミッドだが、崩れた箇所が少なくなかなかに整った立ち住まいをしている。金閣寺に対する銀閣寺のような渋さが感じられた。
1日限定300人まで入ることができるクフ王のピラミッドの内部の見学を終えると、三つのピラミッドを一望できるというビューポイントを目指すことにした。
なぜ私がビューポイントのことを知っているのかと言うと、ピラミッドの敷地内を徘徊するラクダ乗りが口々に「素晴らしいビューポイントに連れていってやる」と誘ってくるからである。
このラクダ乗りたちが本当にしつこい。
こっちが断っているのにいつまでも横に張り付いて「乗っていけ」と声をかけてくる。ひどい時にはラクダの巨体で道を通せん坊してくることもある。
値段は大体200ポンド、つまり1400円程度なので痛い出費ではないのだが、相手のしつこさからこちらも頑固な態度を取ってしまうのだった。
——ビューポイントには絶対自力で行ってやる。
目的の場所は砂漠地帯をしばらく進んだ先にある。私はピラミッドから一時離れ、砂の世界へと歩き出した。
10年前にサハラ砂漠を訪れた時もそうだったが、砂漠というのは砂に足を取られて結構歩きにくい。歩いても歩いても、なかなか目的地に近づくことができない。
持参した500mlの水も残りわずかだ。これに関しては暑さからがぶ飲みしてしまった自分が悪いのだが。
しかし、こうも思うのだ。残りの水を気にしながら砂漠を歩くというのは、規模は小さいが実に冒険らしい行為だなと。
最後の砂山を登り切って背後を振り返ると、三つのピラミッドが少しずつずれながら重なって見えた。
これがビューポイントか。確かに壮観だ。
周辺ではラクダに乗ってやってきた観光客たちがそれぞれポーズを決めながら記念撮影をしていた。私は人気のない場所まで歩くと、砂の上に腰を下ろして連なるピラミッド群を眺めた。
思えば遠くへ来たものだ、と感慨に浸った。
小さな頃から旅行番組などで繰り返し見てきたピラミッド。遠い世界だと思っていた場所に、今自分はいる。
遠い世界、というのは距離的な意味だけではない。私が生まれる前から、両親が生まれる前から、祖父母が生まれる前から、そのもっともっと先のご先祖様が生まれる前から、ピラミッドはここにあったのだ。
そしてきっと、私が死んだ後もこの光景は変わらずここにあり続けるのだろう。
時間は続いている。
そんな当たり前のことが、不思議に感じられた。
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