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電波が届くところに


祖父が亡くなったのは4月の後半だった。
GWの真っ只中。
夏みたいな暑さで、夏休みを思い出していた。
気持ち悪い暑さだな今日は、と思い1日引きこもりだったので、ソファーに寝転がっていたところ、母から電話があった。

“おじいちゃんから連絡入ってない?16:00になっても家に帰らないのよ。”

おじいちゃん?!
いや、ないよ。電話かけたら?

“それが繋がらないのよ。
電波が届かないところか電源が入っていないためつながりませんだって。”

え?
.
….遠方に住んでいるから、普段の生活までは把握していないが、たまに電話していた。
祖母を交通事故で亡くしてから6年、母と私はそういう風におじいちゃんと定期的に会話していた。
16:00で帰らないのは普通の人ならおかしくない話だが、きちんとしている祖父に関してはまずあり得ないのだ。

迷子?携帯無くした?熱中症かな。
色々可能性はあるが、そこそこ都会なわけだし、圏外はまずない。用心深くしっかりしているので大容量の充電器を持っていたのも知っていた。
私は真っ先に水だ、と思った。
.

水ぽちゃしちゃったのかな?
そう大破はしないだろうから、トイレや池とかに落としたら繋がんないかもよ。
まあ公園なら帰るか。

私も電話かけてみるよ!

“そうね、お願い”

暫くかけても、ずっと同じメッセージだ。

電波が届かないところか電源が入っていないためかかりません

母にもう一度電話をした。

かからないよ。私も同じメッセージになる。

“そう、弟(叔父)もかけているから、回線ぶつかるとややこしいしもう大丈夫よ、ありがとう。”

確かに、と思いまあ迷子かなと思っていた。

わかった!

切電した。

とはいえ心配なので課金していくつか位置情報アプリを起動し、居場所を特定しようとしたがわからなかった。
大抵、相手側もそれなりに設定しないと動作しないようだ。

母は挨拶を欠かさない人だ。
おかえりただいまもだ。
しかし、無言で帰宅した。

泣きながら、”ひどい、ひどすぎる”
“おじいちゃんは海、あなた水って言ったけど、叔父が電話かけつづけたら救急隊員に繋がって、今しがた港で引き上げられたって。
延命はしているけど、もう無理かも”

結局叔父のみが看取った。
もうお分かりかもしれないが、
要は、そういうことだ。

その日から世界の見え方が変わった。

西日本から移住してきた私たち家族としては父方の祖父母を早くに亡くし、1番仲良しなおじいちゃんだった。
帰省時にはたくさん遊んだし、身長も高めでアクティブだからスーパーおじいちゃんなんて言われたこともあった。

どうして、なぜ。
まずこの気持ちが1ヶ月ぐるぐるした。
何が追い詰めたのか、何がそうさせたのか。
叔父家族と同居していた職人気質のおじいちゃんは、愚痴や文句を言わない人だった。
多分その体力時間で自分で行動して切り拓きたいタイプ。

だが、やはり時間薬で落ち着いて思うのは、
今生きてる人の幸せのためにいきたいということ。

原因探しのあまりに、生きてる人を追い詰めたら本末転倒というか危険だと感じた。

電波の届くところにいて欲しい。

誰に明日会えなくなるかはわからない。
こう言うとキリはないが、改めて痛感した。

例えば外国に住んでいる人には連絡が取りづらい。特に西洋の国は遠いので元気にしているにせよ、少なくとも明日来週など直近の予定に会うことなどはまず入ってこない。
要は良くも悪くも私の暮らしに基本影響はしないが、電波は届かない。

私の中で電波が届かなければ失踪も同義だ。
日本は将来性がない、未来で住むのにはだめだなど言われる。
私は日本や住んでいる街が好きだが一方で移住したくなる気持ちもわかる。

ジョージオーウェルの1984にもあるように、言語が思考を限定するわけで、考え込みやすい悩みやすい私にとっては良い選択肢なのかもしれない。

ただ嫌になって高跳びしたにせよ、やむを得ないにせよ、自分探しにせよ、学問のためにせよ、どんな理由であれ”電波が届かない意味”ではおじいちゃんを捜索した1時間に似ている。

繰り返しになるが、西日本から上京してきた私たちにとっては関東という存在は(東京の存在に関しても)畏怖を感じてしまうしまだまだ恐れを抱いている。

この死を受けて、私は彼が最後にくれたものとして、”人を信じること”がある。
いまや純粋に信じることの方が難しくなってきた。疑う要素の色々がたくさんネット等にも落ちているからだ。
私にとっても疑うことが簡単だし、信じて騙された人を見ると、安易に信じるからだよと言いたくなってしまう。

先日も同期を信じていたのに….という後輩の話を聞いて、気持ちはわかるけど根本的に心的距離が近すぎたねという話をした。

だが、今回痛感した事はどんな理由でこうなってしまったにせよ、楽しかった思い出は消えないと言うことだ。
題名にもあるように夏になるとちょうどこの季節になると帰省をするといとこ達とおじいちゃんと一緒に線香花火をした。
裕福と言うわけでは無いのだが、花火をスーパーで買ってきて遊んだり、近くの公園にの花火大会に行ったりすることがとても楽しかった

花火したい、花火したい🎆!
毎夏の私の口癖。

毎年夏、花火セットを持って帰ってきて、裏庭で花火をするのがとても楽しみな事だった。
人によっては、いとこともそんなに仲が良くないという人もいるかもしれないが私はこの家族の一員でいられる事はすごく楽しかった。
でも、今回楽しかった思い出とともに、命も線香花火のように儚いのだなぁということを改めて感じた。

少し気を使いすぎる部分がある家系だが、
私はこの家族は良い家族だと思う。
そしてこれまでの軌跡を思うと、今私がやる事は、死の真相を突き止めるために関係断ち切ってしまうことではなく、今生きてる家族のために何ができるかを全力で考えるということだと感じる。

当然おじや母のショックは計り知れない。
私は、ここ数週間、家に帰って、うっかり真相を突き止めようとする話や、これが原因だったんじゃないなどで口を滑らせないようにするために、ボーナスも出たのでほとんど毎週ディズニーシーにいく荒治療をしていた。
これは、家族のために帰る時間を遅くするためはもちろん、自分自身の為でもある。

現在、ディズニーシーは、アプリ上でチケットを表示するようになったし、新しいエリアファンタジースプリングスに入るかどうかも、アプリ上でいかにチケットを取得するかということで充実度が決まってくる。
ディズニーシーにいれば、それらのことを考えずにディズニーをいかに楽しむかに集中できるのだ。

特に新アトラクションアナと雪の女王は(正式名称、アナとエルサのフローズンジャーニー)圧巻だった。

ちょうど10年前、私が高校生の時、ありのままで良いと言うような趣旨の歌が流行、そのきっかけとなったのがアナと雪の女王の作品だった。正直私はこの作品あまり好きになれなかった。
なぜなら、自分が一人っ子なので、姉妹の気持ちがよくわからないというのと主人公たちがなんだか身勝手に見えてしまったからである。

例えば私の好きな作品、ラプンツェルは18年間も塔の上に幽閉されている。それからしたら身勝手だと感じてしまう。

しかし、このアトラクションに乗って、エルサの気持ちアナの気持ちがすごくわかるようになった。
それだけの没入感ということはもちろん、現時点で到達するボートライドの最高地なんだと思う。

私自身も、根底は臆病者で強い恐怖がある。
わかりやすくいうと例えばお誘いが怖い。
自分から誘えばコントロールできるが相手からだと何をされるか分からないという恐怖がある。自分の気持ちと裏腹に折角のお誘いを断ってしまったことも何度もある。天邪鬼な性格だ。

一方で、自分から誘うと相手は徹頭徹尾受 
け身なんだろうなぁと思って消化不良になる。
だから人付き合いが上手くない。
誘ってほしいのに怖い。怖くないよ、と言ってくれたらいいがそう言ってくれる人はあまりいない。

妙かもしれないが、大学は人で選んだ。
普通学びたいことを学ぶと思うが、学びたいことを多少妥協して、人間重視にしたから声かけ甲斐がある人たちだ。(冗談などではなく本当人が良い方々が多い)
人が良く声かけ甲斐があるとはいえ、度が過ぎたらたら当然警戒されてしまう。
私は根本的には寡黙な受け身人間なので、敢えて逆張りしてラインを見定めるために試行するというのも手だと思った。

特定の幼馴染に懐いている、というか甘えているのもこれが理由。
これとは、私が寡黙で受け身なことを理解しているからどんなに無愛想にしても声をかけ続けてくれる。
素でかなり無愛想なのだ。(というより無愛想故に他の人とトラブっているところを見ているから、素なんだなと納得してくれているほうがより近い)
大抵の人は去ってしまうから、無愛想でも一定ライン以上声をかけてくれる人には最後まで懐くという感じ。

エルサも自分の強すぎる力に対して恐怖を抱いていたんだと思う。
エルサは身勝手だと思っていたが、少なからず、私自身にもそういう要素があるし、彼女は自分の強すぎる力をコントロールできないことに対しても、また恐怖を抱いたんだと思う。

結果主義に傾いていた私としては、
そういう時に、過程を見るということの大切さを痛感した。誘ってくれるまでの間はきっと私に会いたいとか、そういった気持ちを持ってくれている。その気持ちにまずはありがとうと言いたい。そういうところに思いを馳せられていなかった。

簡単に言うと日々のありがとうとごめんねをあまり大事にしていなかったのである。
ありがとう。言って不利になったり減ったりするものではないと思う。過程にありがとうである。
一方で、自分が謝って欲しい、傷ついたのに面倒くさいので自分から下手に出る。悪い意味で、相手が気持ちよくなってしまうと、根本的な解決から遠のく。
正解がない話で自分から謝ろうなどとしていると根本的な土俵に段差がついてしまう。

結局溜まって爆発っていうのが私のパターンだった。まるでエルサのようだ。
私も恐怖で凍てついていた。
氷やその動き🧊が精巧に再現されているのもライドの見どころだ。

また、イクスピアリで開催されているファンタジースプリングスの展示会を見て、どれだけの力を入れてオリエンタルランドがこれを作り出したかを改めて感じた。
もちろん、それが目的の展示会なのかもしれないが、私は元々ラプンツェルのアトラクションができるので、ファンタジースプリングスを楽しみにしていたということもあるし、見ごたえがあった。
でも、正直アトラクションそのものでは、ラプンツェルよりアナ雪の方が感動した。

話がそれてしまったが、おじいちゃんとしても望んでいることとしてはファンタジースプリングスを私が楽しむように
人生を楽しむことなのではないかと思う。

本当は地元の中学に行きたかったこと、中学では文学部に入りたかったこと、高校は別の学校に行きたかったこと、後悔やあの時ああだったらは当たり前に枚挙にいとまがない。
一方で母もよくいう、10秒前ですら過去な訳で過去は変えられないのだ。

最近はおじいちゃんは天国への扉を作ったにすぎないからと捉えることができるようになった。

天国も外国や日本の山奥も電波が届かない意味では変わらない。
何なら今は時代的に厳しいから価値観の違いに触れるのもタブー視されがちだから余計に触れられない。

大事な人たちには電波の届くところにいて欲しい。

私も過程と、日々ありがとうとごめんねを大切にしながら、暮らしていきたい。


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