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EUのデジタルIDウォレット(下): EU各国の動向

前回の記事「EUのデジタルIDウォレット(上):欧州デジタルID規則(eIDAS II)の制定」では、2024年3月に正式制定された欧州デジタルID規則(eIDAS II)について解説した。同規則はEUの27ヶ国に対して「欧州デジタルIDウォレット」の発行を義務付けることで、市民がスマートフォン等を通じてEU域内の公的サービスや民間サービスにシームレスにアクセスできるようにするものである。これを受け、EU各国ではデジタルIDウォレットの発行が進められている。
本稿ではEUの中でも取組みが比較的に先行するフランス、オーストリアにおけるデジタルIDウォレットの動向について解説する。


1.フランスのデジタルIDウォレット

1.1 France Identitéアプリ(フランスIDアプリ)

フランスでは「France Identité」(フランスID)[1]という新たなデジタルID(電子的な身分証明書:eID)の開発が進められている。フランスIDによって、市民は(物理的な身分証明書を使用する実世界と同様に)オンラインで個人認証したり、アイデンティティを証明したり、ID情報の提供を自分でコントロールできるようになる。これらの機能を実現するスマホアプリは「France Identitéアプリ」(L’application France Identité:フランスIDアプリ)と呼ばれる。前回紹介した「欧州デジタルIDウォレット」を先取りする形で、類似の機能を果たすアプリである。

同アプリの個人認証機能[2]を用いて、「FranceConnect」(フランスの官民ID連携プラットフォーム)[3]がリンクするすべての官民サービスにアクセスできる[4]。同アプリの利用は無料かつ任意であり、同アプリを使わなくても他のオンライン個人認証手段(impots.gouv.frアカウント等)[5]を用いてログインすることが可能である。また、フランスでは行政サービスへのアクセスをオンラインに一本化するということはなく、紙や窓口での手続きも引き続き利用可能である[6]。

同アプリにはまた、「シングルユースのアイデンティティ証明書(Le justificatif d’identité à usage unique)」[7]というアイデンティティ証明機能が付いている。フランスではアパートを借りたり、銀行口座を開設したり、運転免許証を取得したりする際に本人確認書類としてIDカードのコピーを提出することが一般的だが、このやり方にはコピーの漏洩や悪用を通じてID窃盗のリスクがある。フランスIDアプリでは、必要なID情報のみをピックアップした、受領者限定のシングルユース用の証明書をPDFで作成し、サービサーに送信することができる。

図表 1 フランスIDアプリ
(出典:https://france-identite.gouv.fr/)

フランス政府はフランスIDにおいて、(欧州デジタルID規則で要求されている)eIDASの保証レベル「高」を目指している[8]。2022年5月にフランスIDアプリのベータ版が提供され、2024年2月には正式版が提供開始された。アプリのインストール時には、スマートフォンのNFC機能を使ってIDカード[9]のチップを読み取り、出生簿(L'état civil:エタ・シヴィル)のデータをアプリにインポートする。  

フランスIDアプリの用途としては、上記のFranceConnectへのアクセスやシングルユースのアイデンティティ証明書のほか、店舗等での対面での年齢証明、次節に記載するデジタル運転免許証、代理人へのデジタル委任状等がある。代理人へのデジタル委任状については、2023年11月に3県(ローヌ、オー・ド・セーヌ、ウール・エ・ロワール)で実証実験が開始され、2024 年6月の欧州議会選挙におけるオンライン代理投票での利用が予定されている[10]。

図表 2 フランスIDアプリの用途

1.2 デジタル運転免許証

フランスの「デジタル運転免許証(Le permis de conduire dématérialisé)」[11]は 、フランスIDアプリの1機能である。警察官に運転免許証を提示する際に利用可能である。

デジタル運転免許証は2023年第4四半期に3県(ローヌ、オー・ド・セーヌ、ウール・エ・ロワール)で開始され、2024年2月からは全国で開始された。今後はレンタカー会社にデジタル運転免許証を提示したり、 運転免許証情報をオンライン手続き用の申請文書に統合することも可能となる。

デジタル運転免許証の取得方法は以下である。

①運転免許証の「制限情報声明(Relevé d'information restreint:RIR)」[12]を「マイ免許証ポイント(Mes Points Permis)」プラットフォーム[13]で取得する。
②フランスIDアプリでRIRのQRコードをスキャンする。
③運転免許証がフランスIDアプリにインポートされる。

また、デジタル運転免許証の提示方法は以下である。

①利用者はフランスIDアプリを開き、「運転免許証を提示する」を選択する。
②利用者は転送されるデータについて知らされ、同意する。
③利用者がスマートフォンを警察官のスマートフォンの上に置くと、両者の間に非接触接続(NFC)が確立される。
④警察官が利用者の運転免許証(情報)を受け取る。

図表 3 フランスのデジタル運転免許証
(出典:https://france-identite.gouv.fr/)

なお、欧州デジタルIDウォレット(EDIW)の実現に向けた取組みの一環として、内務省国家セキュリティ・ドキュメント局(ANTS)はEU加盟国19 ヶ国およびウクライナの官民機関で構成されるコンソーシアム(POTENTIAL)[14]を主導している。 同コンソーシアムでは、運転免許証を含む以下の 6 つのユースケースを通じて、市民のオンライン手続きを簡素化・セキュア化するためのデジタル ID ウォレットの実証実験を実施している。

・eGOV
・銀行口座開設
・SIMカード登録
・デジタル/モバイル運転免許証
・適格電子署名
・電子処方箋 

[1] https://france-identite.gouv.fr/
[2] 6桁の個人コードを入力し、スマートフォンのNFC機能でIDカードを読み取る。
[3] https://franceconnect.gouv.fr/ 利用者は約4000万人、1400以上のオンラインサービスにリンク。
[4] スマートフォンでアクセスする場合のみならず、PCでFranceConnectにアクセスする際も、フランスIDアプリの個人認証機能を用いることができる。
[5] 2024年5月現在、FranceConnectで利用できる個人認証手段は、impots.gouv.fr(税番号)、Ameli.fr(社会保障番号)、L‘Identité Numérique La Poste(郵政公社)、MSA(農業社会共済)、YRIS(民間企業)、France Identitéの6つ。
[6] 欧州デジタルID規則(eIDAS II)においても、前文(34)で、デジタルIDウォレットを使用しないことを選択した人々に対する差別を回避し、市民の権利を守る旨が謳われている。
[7] https://france-identite.gouv.fr/justificatif/
[8] 2024年5月現在、フランスIDはeIDASの保証レベルを取得していないため、EUの他国サービスで使用することはできないが、後述のPOTENTIALプロジェクトにおいて欧州規模でデジタルIDウォレットの実証実験を行っている。
[9] パスポート、在留許可証への対応も計画されている。
https://aide.france-identite.gouv.fr/kb/guide/fr/presentation-de-lapplication-VT6Tt0krgf/Steps/3268839,3268842,1875041
[10] https://france-identite.gouv.fr/articles/prochaines-etapes-2023.html
[11] https://france-identite.gouv.fr/articles/le-permis-de-conduire-integre-France-Identite.html
[12] 運転免許の有効性と範囲を証明する書類。運転できる車両のカテゴリーを指定し、運転免許が停止されているか否かを示す。
[13] https://www.securite-routiere.gouv.fr/le-permis-points/consulter-son-solde-de-points
[14] https://www.digital-identity-wallet.eu/

2.オーストリアのデジタルIDウォレット

2.1 市民カードとHandy-Signatur

オーストリアでは従来、公的なデジタルIDとして「市民カード」(citizen card)が発行されていた。市民カードは、「Source PIN」[15]を搭載し、電子署名・認証機能(デジタルID機能)を持たせた(署名用電子証明書[16]を格納した)オンライン行政サービス用のICカード等の総称である[17]。オンラインサービス利用時には、端末(ICカード)側でSource PINから分野毎の「ssPIN」[18]が生成され、サービス側で利用者を識別できる。「市民カード」の媒体は、社会保険カード、銀行カード、学生証、携帯電話(Handy-Signatur)[19]等を選択可能であった。

2.2 ID Austria

このHandy-Signaturの後継として、オーストリアで導入が進められているのが、「ID Austria」[21]という新たなデジタルIDである。2021年にパイロット運用が開始され、2022年4月にeIDASの保証レベル「高」を取得[22]したため、前回記事で紹介した相互承認により、ID AustriaのデジタルID(eID)機能を他のEU加盟国でも利用できるようになった[23]。

ID Austriaは2023年12月から通常運用を開始した。これにより、上記のHandy-Signaturおよび「市民カード」は完全にID Austriaに置き換えられ、オンライン行政サービス利用時にはID Austriaが必要になる。民間サービスへの用途拡大も予定されている。なお、発行手数料は無料である。スマートフォンにダウンロードした「Digitales Amt」(デジタル役所)アプリ(次節参照)での利用が主体であるが、FIDOセキュリティキーを用いてPCのブラウザでID Austriaを利用することも可能である。

認証方法はパスワード+スマートフォンの指紋認証(Touch ID等)または顔/虹彩認証機能(Face ID等)である。

ID Austriaを用いると、公的登録簿から自分の属性情報を取得し、どのサービサーにどの情報を提供するかを自分で選択することができる(いわゆる自己主権型ID(SSI)である)。

2.3 Digitales Amtアプリ(デジタル役所アプリ)

ID Austriaをスマートフォンで利用するには、「Digitales Amt」(デジタル役所)アプリ[24]をダウンロードする必要がある。デジタル役所アプリは、欧州デジタルIDウォレット(EDIW)を先取りしたアプリであり、以下の用途に用いることができる。

図表 4  オーストリアのデジタル役所アプリ
(出典:https://apps.apple.com/

①オンライン行政サービスへのアクセス(個人認証)
ID Austriaを用いて、200以上のサービスで個人認証することが可能である。
・住所登録、住所変更
・住民票の請求
・投票カードの申請
・不在者投票の申請
・犯罪歴抄本の請求
・デジタルベビーポイントの利用
・パスポートリマインダーサービスの利用
・FinanzOnline(納税ポータル)への登録・ログイン
・MeineSV(社会保険ポータル)への登録・ログイン 等

②電子郵便局(電子送達サービス)
オーストリア国民は2020年1月から電子政府法に基づき、裁判所や行政機関との「電子通信の権利」を有することとなった。いくつかの例外的なケース(パスポート、紙の原本文書、同封物の郵送等)を除いて、受取人が電子送達サービスに登録している場合、連邦政府機関によるすべての送達は電子的に行われなければならない。これらの機関からのメッセージの表示や送達物の受け取りは、デジタル役所アプリの「マイメールボックス」(Mein Postkorb)機能(またはPC利用の場合は行政ポータルサイトoesterreich.gv.at)で行うことができる。

③適格電子署名
EUの全ての要件を満たした電子署名(適格電子署名)を行うことができる。

④証明書デジタル表示機能
オフラインでも(ネット接続がなくても)利用可能
・デジタル運転免許証(2022年秋開始):
デジタル役所アプリから「デジタル身分証明書」(eAusweise)アプリをダウンロードし、アクティベートすると、国の運転免許証登録簿から免許証データがスマートフォンに読み込まれる。交通管理時には、同アプリでQRコードを表示する。警察官が自分のアプリでスキャンし、チェックする。2024年5月現在ではオーストリア国内のみで利用可能である。

図表 5 オーストリアのデジタル運転免許証
(出典:https://apps.apple.com/

・デジタル年齢証明(2023年秋開始):
店舗等で店員に自分の年齢を対面で証明できる。「顔写真」「最終更新日時」「一定年齢以上であるか否か」の情報のみがQRコード形式でチェック者に渡される。氏名や生年月日といった年齢チェックに不要な情報は渡されない。他の証明書(住民票等)のデジタル表示も予定されている。

本稿ではフランスとオーストリアにおけるデジタルIDウォレットの事例を紹介した。前回記事でも紹介したように、EU各国では欧州デジタルIDウォレット(EDIW)の実証実験が実施されており、欧州デジタルID規則(eIDAS II)では2026年11月までに各国にEDIWを発行することが義務付けられている。このような官民が連携した取組みによって、オンラインと実世界でシームレスにEDIWを利用できるようになることで、EU各国市民の生活はますます便利になることが予想される。

[15] Source PINは、オーストリアの国民識別番号であるCRR番号を元にデータ保護委員会が生成・発行する一意な秘匿番号であり、当人の市民カードのみに保存される。
[16] オーストリアでは、個人認証も署名用電子証明書を用いて行う方式を取っている。
[17] http://www.i-ise.com/jp/report/NationalID20101213.PDF.pdf
[18] ssPINはSource PINを元にデータ保護委員会が生成・発行する分野別の機械処理用番号である。行政分野ごとに保存・管理され、当該分野以外の利用・保存は禁止されている。なお、ssPINはハッシュ関数を用いて生成されるため、ssPINからSource PINを逆算することはできない。
[19] https://www.handy-signatur.at/hs2/
[
20] https://www.buergerkarte.at/en/activate-mobile.html
[
21] https://www.oesterreich.gv.at/id-austria.html
[22] なお、Handy-Signaturを含め、従来の市民カードはeIDASの保証レベルを取得していなかった。
[23] また、オーストリアは他のEU加盟国のデジタルID(eID)の受け入れも行っており、2024年5月現在、ベルギー・ドイツ・エストニア等15ヶ国のeIDを承認している。https://www.oesterreich.gv.at/themen/egovernment_moderne_verwaltung/elektronische-identit%C3%A4t-(eiD)-anderer-eu-mitgliedstaaten-(SDG).html
[24] iOS版およびAndroid版がある。

国際社会経済研究所 調査研究部 主幹研究員
小泉 雄介

【著者プロフィール】

小泉 雄介(こいずみ ゆうすけ)
国際社会経済研究所(IISE)調査研究部 主幹研究員
新しい技術の導入が人間社会にもたらす影響という観点から、プライバシー/個人情報保護、国民ID/マイナンバー制度、海外デジタル政策等についての調査研究に長年従事している。

(主な所属団体)
・電子情報技術産業協会(JEITA)個人データ保護専門委員会 客員
・日本セキュリティ・マネジメント学会 編集部会員
(主な著書・論文)
・『国民 ID 導入に向けた取り組み』(共著)
・『現代人のプライバシー』(共著)
・「『国民IDの原則』の素描:選択の自由を手放さないために
・「中央銀行デジタル通貨における個人情報保護と日本での発行モデル
・「感情認識の倫理的側面:データ化される個人の終着点
・「『快適で安全』な監視社会 ―個人の自由が保障されなくていいのか

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