記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「卒論合同」感想③ ~station zero~

引き続き、感想を綴ります。
①はこちら。②はこちら

4-1. 「愛城華恋と神楽ひかりの幼稚園の先生」 ゆーな(@snowwhiteruby86)氏

小さな描写からある人物に関する妄想を膨らますのは、「考察」の一つの醍醐味であろう。本稿はそのお手本とまで言えそうだ。数分しかない描写から、幼稚園の先生としての最大ともいえる喜びが推察されている。自発的に華恋がみんなと遊ぶ様子を見た嬉しさや、わざわざロッカーを隣同士にする計らいといった想像は、非常に共感できたし胸が暖かくなった。

本稿では少しだけ「華恋の転入」と「ひかりの転校」が類比されていたが、ロッカーのような「計らい」がひかりの転校時にも見られると考えられる。ひかりが転校してきた後の座席表は図①の通りであるが、図②の方が自然だと考えられるだろう。そう考えると、これもあえて華恋の後ろにひかりの席が置かれた、と解釈することも可能である。こうした本筋に関係ない「感情」への想像は、作品の彩りを豊かにしてくれる気がして、非常に面白かった。

(アニメ第2話をもとに作成)


4-2. 「心理学的視点から見る愛城華恋の人物像」 ふぁる(@shun87)氏

華恋が戯曲『スタァライト』から受けた影響を心理学的視点から考えるのは非常に面白かった。また、そこから導かれる結論として「ネガティブな影響を受けている」という視点は意外(自分にとっては考えたことの無い視点)で、興味深かった。

また、「取り入れ」という概念を援用することで華恋の著しい性格の変化が説明できるのが面白かった。一方で、華恋のポジティブさは聖翔入学頃から顕著になるのに対し、ひかりは王立演劇学院時代から寡黙な様子が窺える。本稿で触れられていた「性格の入れ替え」に若干の時期のずれがみられるのはさらなる考察に値するであろう。


4-3. 「幼児の発達段階から見る『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の時空の歪みについて ー数字を使った「輪」の創造・破壊と再生産ー」 七尾(@770_xgs)氏

一つの違和感を徹底的に精査し、そこから解釈を広げていく、お手本のような「考察」で、得るものが多かった。作中で矛盾する時間の流れを「ガバ」として唾棄するのではなく、その不整合自体を有意味なものとして解釈する試みは非常に示唆に富んでいて、読みごたえがあった。

タイトルの「時空の歪み」は、制作者からの視点で見ると、本稿で指摘されている通り「「再生産」「円環」を作り出す必要があった」と解釈できる。この解釈を持ったまま、作中からの視点にレイヤーを落としてみると、「作中人物たちの「再生産」への脅迫観念があった」と解釈できるような気がした。すなわち、「(舞台少女たるもの)再生産しなければならない」という華恋・ひかり・その他の人物の中にある無意識の強迫観念が、「12」「5」という数字を強く感じさせ、その結果「12年前の5歳」と誤認せしめたのではないか。そしてその「認知の歪み」が、作中の「時空の歪み」を形作ったのではないか、と感じられた。あるいはその強迫観念は、「「出会い→約束→別れ」という(4歳~)5歳の時に華恋・ひかりが辿った道筋を、戯曲『スタァライト』として再び演じなければならない」という類のものだったのかもしれない。

12の円環から脱出することで、それを燃やし尽くすことで、真の意味で「再生産」されることが可能になる、と本稿は指摘する。本稿の結びとして言及されているトマトの花言葉「完全美」も、そうした指摘への想像を膨らませてくれる。舞台少女たちはトマトを齧ることで、「再生産」を遂げた。円環からの脱出という視点で「再生産」を捉えれば、そこには、トマトの円形(厳密には球形)を崩すこと、実を結んだ完全美に歯を立てることであり、そしてそれを糧にすること、というモチーフを見出すことも難しくはないだろう。


4-4. 「『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における東京タワーの描写について ~"滲んでいく東京タワー"を中心とした考察~」 ムクノキ(@chigajac)氏

「滲んでいく東京タワー」の描写は、具体的な描写の中で突然抽象度の高い描写が登場する形であり、解釈がむずかしかったが、本稿の解釈は説得的だったし腑に落ちた、特に、「華恋にとっての認識(「解像度」)の差」という解釈は、東京タワーの最上部(③の部分)の解像度の低さが、華恋の「私だけの舞台って、何?」という台詞と共鳴して感じられて、面白かった。

もう一つ気付いて興味深く感じたのは、最終版の二つのシーンの対称性が高いということである。「ひかりの武器が、華恋の(T字に割けた)レヴュー服を貫いた」ということと、「東京タワーの先端部が、砂漠のポジションゼロを貫いた」ということが、構造として非常に似通っているのである。さらに、本稿で示された「東京タワーの先端部は華恋のきらめきに対応している」という点を踏まえれば、砂漠のポジションゼロが、ひかりのレヴュー服と対応関係にあることが示唆されてくる。より具体的に言えば、華恋のきらめきがひかりの心臓を貫き、ひかりのきらめきが華恋の心臓を貫いた、と言うことになるだろう。こうした解釈は、「貫いてみせなさいよ、あんたのそのきらめきで」というひかりの台詞と見事に対応していることになる。

また、東京タワーの各部分との対応関係(下から順に、ひかり・華恋・華恋のきらめき)は、冒頭のシーンに対する解釈も可能にしてくれるかもしれない。東京タワーのメインデッキから大量の銀色のポジションゼロが噴き出すシーンは、本稿での指摘を踏まえると、華恋とひかりの結節点から演じられた舞台が大量にあふれ出す、と解釈ができる。これをどう解釈するかは検討の余地があるが、華恋とひかりが「約束」に向けて(=「通過点」として)演じてきた数多の舞台が、「約束」の達成を遂げ不安になる中で、焼き尽くすべき「過去」として立ち現れてきた、というのが解釈の一つとしてありうる。


4-5. 「舞台装置「東京タワー」」 mori production(@kiuru0519)氏

登場人物の東京タワーへの思い入れと作品内での東京タワーの描かれ方のギャップから、「「オーディションを創る者」を創る者」として制作陣の存在が炙り出されているのが面白かった。作者を(意識的に)透明化してしまう癖があるので、そうした存在への言及は新たな視点だった。さらに言えば、こうした「作者の影」が不可分に作品に刻み込まれているのが興味深い。本作は、作品、劇中劇、劇中劇中劇などが複雑に重なりあう重層的な構造が特徴の一つとなっており、そうした作品に「「「創る者と創られる者の関係」を創り出すもの」を創り出すもの」という重層的な構造が、東京タワーの描き方に垣間見えたのは興味深かった。

「公園で華恋が泣き出すシーンがアニメと違うのは、回想の形式をとっているから」という指摘があった。これらのシーンの背景が水彩画チックであるのもそれを補強する。このシーンに対する違和感は初見時からあったので、こうして言及されておりすっきりした。
ここで付言しておきたいのは、上記の考察はアニメでの描写が「史実」であることを意味しない、ということである。実際私は、アニメでの描写がひかりによる回想だと解釈している。こう解釈すると、アニメでは華恋が滑り台の上のひかりに向かって上って行ったのに対し、劇場版では華恋とひかりが同じく地上に立っている、という違いにも意味を与えられる。ひかりにとっては、華恋が下にいた(自分が先んじている)と思っていたのに追いついてきたため目を背けてしまったシーンであるのに対し、華恋にとっては、共に上へと駆け上がっていく対等な存在として約束したシーンであった、と解釈できる。


4-6. 「エデンでとぐろを巻く蛇——失楽園に沿ったマキちゃんの解釈」 高島津 諦(@takatei)氏

鮮やかというより他にない。「エデンの果実=トマト」という多くの人が了解している点から初めて、全体の構造としての「聖書のループ」の提示、それを解きほぐすための「失楽園のテンプレート」「禁断」を絡めながらモデル化した後、物語の中で絶妙な立ち位置を担う華恋の叔母・マキの解釈へと至る。どこを切り取っても説得的で面白く、文字を追う目が止まらなかった。作中での立ち位置が微妙に定まらなかったマキを全体の構造の中に位置づけた点も、大いに参考になった。

まず本稿に関連して腑に落ちたのは、『再生賛美曲』の歌詞解釈である。「幸せよ 君はいずこに それが何かわからなくても 例えばそれがエデンの果実でも だから眩しい」という歌詞は、いまいち何を言っているのかがつかめなかったが、本稿を踏まえて考えてみると、「「幸せ」という人生の究極的な目標となる概念は、「何かわからない」のに「眩しい」、「エデンの果実=禁断」なのに「眩しい」と同時に、「何かわからない」から「眩しい」のであり、「禁断」だから「眩しい」」と解釈できる。それはまさしく失楽園への欲求であり、劇場版へとつながる眼差しが『ロロロ』の中に埋め込まれているのではないか、と感じた。

また、「失楽園の連鎖」という視点も興味深い。エデンの果実を口にしたイヴ役が、今度は食べるよう唆す蛇役になる、という切り取り方は、本稿の中で触れられていたように、なな→まひる→ひかり→華恋の流れをかなり簡潔に理解することを可能にしてくれる。付言して言えば、大道具室から決起集会への流れも連続的な「連鎖」と見て、前者における「禁断の実」も「未完成の脚本」であり、「禁断の中身」も「第100回のスタァライトを超えられない可能性」であるとした方がすっきりするように感じた。というのも、雨宮の筆が進まないのはクオリティが落ちることを恐れているからであり、恐れの具体化として現れた「未完成の脚本」を受け入れることでこそ、己の不安や弱さを受け入れることができた、と解せるからである。また、雨宮はそうした不安に駆られて「未完成の脚本(の没案)」を拒否している(丸めて捨てている)点も、禁断の果実と重なるところがある。

「ルール外のルール」というじ重層的な構造にも驚かされた。本作の中で重層的な構造になっているということは過去にも触れているが、奏した構造が「禁断」にも見出せるというのは新たな視点だった。

最後に、「なぜ父ではなく、叔母なのか」という点を考えたい。華恋の母を失楽園へと導く「蛇役」は、ほかの人物でも良かったはずだ。身近にいる親族ならば、父親がまず候補に挙がってくるだろう。しかし本作は、あえて新たなキャラクターを登場させ、「蛇役」を担わせている。そこには、華恋に
に聖翔を勧める行為に権力性を帯びさせず、一方でそうした会話のできる親密さが必要であったから、という理由が窺える。
ここでもう一つ疑問となるのが、「華恋の父は、何故描かれず言及されたのか」という点だ。本作は、父親に全く言及しないわけではない。むしろ、華恋の精力的な活動を成りたたしめる者として、その姿は描かれないながらも重要な存在として言及されている。そこには、例えば「聖霊」的な父親像が想定されているのかもしれないし、あるいは華恋を支えるという目的のもとで家庭での時間を犠牲に懸命に仕事に取り組む、「失楽園」のある種のロールモデルとしての父親像が想定されているのかもしれない。上記のような解釈はあまり納得できていないので、父親の描き方についてはさらなる考察が必要であろう。


(この記事に関する意見や指摘等があれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?