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「卒論合同」感想①~Introduction・皆殺しのレヴュー~

0.はじめに

2022年10月10日。「トマトの日」として知られる(?)この日に、とんでもない同人誌が出た。総勢121名に及ぶ『少女☆歌劇レヴュースタァライト』(以下「スタァライト」)ファンが参加する『舞台創造科3年B組 卒業論文集』(以下「卒論合同」)である。本稿では、この「卒論合同」自体に対する感想を述べた上で、第一章「inrtroduction」と第二章「皆殺しのレヴュー」にまとめられた各記事に対する感想、考察を踏まえてさらに自分が考えたことを綴る。

1.~入手時の反応

「卒論合同」との出会いは、まだ私がこのアカウント(@nebou_June)を作る前、TwitterのTLにおいてである。見たときには「へ~こんなの出るんや、熱量すごいなぁ」くらいの感覚であった。が、「スタァライト」に関する思索を深めていくうちに、「考察書こうかな…」という気になってきた。そうして考察を書き上げてアカウントを作る頃に再び目にしたときには「そういえばこういうのあったな!!参加しておけばよかった!!!」と心底後悔することになっていた。

かくして、考察するのと同じくらい考察を読んで更なる考察を加えるのが好きになっていた私は、「卒論合同」を入手することにした。調べてみるとどうやらメロンブックスにしか売っていないらしい、ということで友人を連れて訪れてみたら品切れ。二度目のチャレンジを経てようやく入手した。

ようやく入手した時の最初の感想は、「でかいな」であった。いや大きいとは聞いてたが、ここまでとは聞いていない。家に結構専門書とかあるけどそれよりでかい。「カバンにある程度余裕があるから大丈夫やろ!」と余裕であった私は、無事カバンから晴れやかな青空をとびださせながら帰宅することとなった。ちなみに後日測ってみると21.0*29.7*3.2=1995.84㎤。その体積は実に2L近くであった。

「卒論合同」それ自体に関する感想としては、まず表紙が良すぎる。裏表紙の『星のダイアローグ』からの引用も良い(追記①)。まず書こうとすることが天才だし、『星のダイアローグ』から持ってくるのも天才だし、その部分から持ってくるのも天才。そして表紙を開き目次を見ると、体裁がかっこよすぎる。え?これほんとに同人誌なんですか?と疑ってISBNを探してしまった(なかった)。そして、論文が始まる前で最もよかったポイントが「考察に正解はなく、どの考察も一個人の解釈であることをご理解ください」という但し書き。考察はあくまで個人的なものでしかありえず、だからこそ一つ一つの感性を、それが自分のものであれ他人のものであれ、大事にしたいと改めて感じさせられた。

自分語りのような文章はここで終わりにして、次から「論文」に対する感想を綴る。著者の方々を想定して書いている部分と独り言のような部分が入り混じっているので文体の乱れがみられる可能性があるが、ご容赦いただきたい。

2.Ⅰ:「Introduction」感想

2-1.「列車は必ず次の駅へ ではオタクは?~本誌の制作過程と構成~」 さぼてんぐ(@saboteng23)氏

まずは本当にありがとうございます。おかげ様またいろいろと思索が深められそうです。

私信はさておき、熱量がすごい。先述の通り「出る」と知った時にも一つの作品にかける熱量に驚いた覚えがあるが、これを読んでよりその念が強まるとともに尊敬すら覚えた。「論文」を募り、取りまとめて、体裁を整え、本にするだけでも相当な労力がいりそうなものなのに、イラストも入れ、アンケートも作り、ましてや「エセ査読システム」なる大変な作業まで行われる熱量には、敬服するばかりである。

そしてもう一つ、これを読みながら考えたことは、「卒業」論文集が出たことによって「卒業」が遠のくという逆説的な状況についてである。『劇場版』は舞台少女たちと一緒に我々視聴者も卒業させる物語であった。あるいは我々視聴者を舞台少女にしたうえで、全員を卒業させるということもできるであろう。そうしたメッセージが「折り目を付けた台本には 新しいことは何もなくて 台詞はとうに馴染んでるから 閉じてしまってもいいか」という歌詞にあらわれている。が、「卒論合同」は新しいことを書き込んでしまう。我々視聴者にとってはそれはこの上なく悦ばしいことである。しかし一方で、「次の駅」へと向かうことを引き留めるという作用についても考えないではいられない。そう考えること自体も、作品に囚われていることになってしまうのだろうか…

ともあれ、こんなに素晴らしい同人誌を作り上げてくださった、さぼてんぐ氏をはじめとする主催陣の皆様には改めて感謝したい。

2-2.「語彙力皆無の学生が劇場版スタァライトを鑑賞し抱いた疑問をまとめてみた」 まどれーぬ(@Yuzuki08050417)氏

タイトルだけ見て「よ~し答えちゃうぞ~」と思って読んだらだいぶ難しい問題で返り討ちにあった。そうなんですよ……劇場版スタァライトって難しいんですよ……と再確認することになった。自分を再び謙虚にさせてくれてありがとうございます。抱いた疑問を胸にわかるところから切り崩していく、そうした姿勢で読み進めていこうと思う。

3.Ⅱ:「皆殺しのレヴュー」感想

以下ではwi(l)d-screen baroqueをWSBと略記する。 

3-1.「「怖い」映画~『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』私的感想文~」 黎(@lei_lys2323)氏

最初に「怖い」と言われて「怖いよね眩しすぎて」ということかな?とも思ったが、どうやらそういうわけではなさそうだった。

黎氏の言うWSBの「怖さ」はいやに我々との近接性を強調するところにあるのではないかと直感している。日常的なものを非日常な環境に置くことで日常の非日常性を際立たせる「デペイズマン」という手法があるが、ここでは逆に、非日常なものを日常の中に描くことで、非日常の日常性を際立たせる、という手法がとられているのではないか。そうした「非日常の日常性」がじわじわと侵食してくる感覚に「怖さ」を感じたのではないか。

そうした「非日常の日常性」のような主題は『劇場版』の根幹をなす主題であるとも考えられる。これまでどこか遠い存在として見られていた「舞台少女」が、実はきわめて身近な存在であること、我々は皆舞台少女であることと並行しているのではなかろうか。
そのような眼差しで物語を見ると、また新たな「怖さ」が見つけられるのかもしれない。

ちなみに私は驚かされるのが苦手なので、決起集会の直後の野菜キリン+大音量や、冒頭でトマトがはじけた直後の大音量が怖かった。前者はBGMの『舞台少女心得』のメロディ「舞台は私たちの大きな舞台だから」の「ら」で来るので2回目以降は準備ができる。ご参考までに(誰向け?)。

3-2.「レヴュー曲『wi(l)d-screen baroque』の歌詞から読み取る「wi(l)d-screen baroque」という言葉の意味及び各キャラクターの心理状況」 おちゃまる(@rjko_cha)氏

真矢クロのところが特に面白かった。ここは他の4人の「殺し」方より少々入り組んでいてわからない部分も多かったので、「魂のレヴュー」を含めた真矢クロ関係の解読の切り口になりそうな気がした。また、決起集会でクロディーヌが「なんであいつだけ」というのもよくわからなかったが、虚心坦懐に見ればWSBで真矢だけが「殺され」なかったことを言っていると得心した。

ただ、こう解釈すると短絡的に「真矢は唯一「正しい」舞台少女の在り方をしていた」と結びつけてしまいたくなるが、それは尚早なように感じる。現に真矢は「魂のレヴュー」の中でクロディーヌにその虚ろさを暴露されているので、「皆殺しのレヴュー」時点での真矢を「完璧な」舞台少女と評価するのは文脈に沿っていないであろう。むしろ「真矢は唯一ななのお眼鏡にかなった」と解釈した方がその後の文脈には沿うような気がする。

また、「誰かが誰かの血となり肉となれば」という部分は特定の個人にあてたわけではないという前提のもと解釈しようとしてよくわからなかったので、真矢クロの文脈の中で解釈する仕方は意外だったし面白かった。

3-3.「皆殺しのレヴューあるいはなな無双の解析」 道遠(@michitoh_m)氏

エグすぎる。純粋に畏怖の念すら覚えた。どうしたらこんな詳細な表を作ろうと思うのか、教えていただきたい。

レヴューを殺陣として捉える視点は興味深かったし、このシーンの詳述も入念で面白かった。レヴューを殺陣として捉えたとき「演出」が舞台少女ら自身によって意図されているのか否か、みたいなところを考えてみるのも面白そうだと感じた。特に「舞台映え」するアクションを取ったななは、「こちら側」が見えていると感じさせるような描写や脚本能力から考えても「意図して」やっている可能性が無くはなさそうだ。

3-4.「「大場なな」の作り方」 Fred(@ReadGlym)氏

重層的に入り組んだ「大場なな」という概念を解釈するにあたって、一貫した「大場なな」という人格を措定するのが難しいと考えていた中で、「永遠の一瞬」をはじめとした概念装置によって解釈を試みていたのは興味深かった。私はWSB前後で大きな変化があるとした上で両者に対し別の存在のような扱いをしていたので、「脱構築」によって連続的に捉えようとするという視点は新鮮で面白かった。

「永遠の一瞬」について。「永遠の一瞬」は、経験そのものなのだと思う。哲学において「クオリア」と称されるそれに近いものだと解釈した。それは、どうやっても記号化されず、したがって同じ形で反復されることはない。だからこそ「永遠の一瞬」は輝きを失わない。経験した人の心に残り続ける。そう考えると、ななが何度再演を繰り返しても第99回聖翔祭初演の眩しさにたどり着けなかった理由もわかる気がする。「燃える宝石のようなキラめき」と言葉にして、言い換えれば記号化して、反復しようとした。この行為は「永遠の一瞬」を輝かせる所以を取り去ってしまう行為である。そのためななは眩しさに届かなかったのではなかろうか。

そしてこうした「記号化」をネガティブにみる視点は、この映画自体にも備わっているのではないか。Fred氏は本作について、「「抽象」をそのまま映画にすることを試みたのではないだろうか」と述べる。「抽象をそのまま映画にする」とはすなわち、体験を記号化せず、体験そのものとして受容させる、言葉やその他の何かでもって記号化させないということである。こうした主題は非常に現代芸術に近いところがあるような気がする。

3-5.「ワイルド スクリブル トマティーナーー神楽ひかりの代弁者としてwi(l)d-screen baroque"初演"の真実を探るーー」 石田初羽(@acrylyrie)氏

すごい。この一言に尽きる。細かいところを拾い上げて解釈を積み上げていく精緻な考察で、本当に面白かった。まず、アニメ版をテセウスのミノタウロス退治に類比して考える部分で圧倒された。全く考えたこともなかった考察だったのに、すべてが符合して感動した。これが傍論として論じられるのはやばすぎる。

本論の始まりは、オーディションと同じくメールから。細かすぎて全く気にも留めてなかったが、そう聞くとそうとしか考えられなくなってくる。この部分以外にWSBがすでに一度行われたことを示唆する描写は無かった気がする(少なくとも見つけられてはいない)ので、本当にすごいと思う。

「間に合わない」と走るキリンの描写もストーリーと半ば独立していて解釈がしづらかったが、こう考えると納得がいった。またキリンに関連して言うと、拙稿では作品全体を通してキリスト教的価値観とWSBによるその解体という捉え方をしていたので、キリンの後景化は脱宗教化の一環として理解していたが、そこには確かにWSBの主催の問題が入ってくるし、それを舞台少女に求めたのは非常に新鮮で面白かったし説得的だった。
また、ひかりもななと同じような振る舞いをしようとしているという議論は、ぽらる氏の「神楽ひかり版WSB」という概念につながる発想で興味深かった。

最後に、カーテンコールについて。先述の通り、耳が痛い限りである。あんなに明示的に「卒業」として送り出されたにも関わらず、この場に、聖翔に留まってしまっている。でも、もう少しだけ、「夜明け前」を楽しませてほしい。「それがやがて終わること」も、「あのページに戻れる」ことも知っている。でももう少しだけ、「折り目を付けた台本」を読み込ませてほしい。本当に「新しいことは何もない」と思える時が来るまで。

11/23追記①直接の引用は『スーパースタァスペクタクル』からでした。どちらにしても素敵。

(記事に関して、思うところや新たな着想などあれば遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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