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「卒論合同」感想② ~大決起集会~

間が空いてしまいましたが、前回に引き続き感想を綴ろうと思います。
前回はこちら
※「本作」は『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』、「本稿」は対象としている「卒論」を指しています。

3-1. 「眞井霧子と雨宮詩音が隣り合う意味とは」 藤樹翠(@Toju_midori)氏

構成も文章もうますぎる。普通に読んでいて鳥肌が立ちました。大決起集会の眞井さんが与える、「怖い」という宣言に対する驚きとそうした「怖さ」の露出に対する好感の混じった独特の印象の理由が、「かっこ悪さ」を軸に綺麗に言語化されていて、非常にすっきりした。そう考えると大決起集会のあのシーンは、不完全性を確かめ合う二人の「レヴュー」であるように思える。また、その前の大道具室でのシーンは「魂のレヴュー」前の楽屋でのシーンと比べてみると面白いかもしれない。

拙稿ではWSB以前は舞台創造科が絶対的な優位性を以ていることを論じた。そうした存在が舞台少女たちに先立って「カッコ悪さ」を曝け出し、「塔を降りる」ことを宣言する行為は、独自の意味を帯びると言えるだろう。

3-2 「今こそ塔を降りる時―聖翔音楽学園という「楽園」からの追放、そして舞台少女について―」Tomoki(@universe12153)氏

私の見る見方とはかなり違って斬新だった。学校という領域・中庭という空間・制服/レヴュー服というモチーフは、当事者ならではの目の付け所で面白かった。

「出ていくための塔を、自らの手で建てる」という視点は興味深い。99期生たちが建てる塔は、最初から建っていても、明かりをともしだけでも、自動的に建つだけでも、決起集会の演出として成立したであろう。しかし、自分たちの手で、自ら去る場所を知覚する必要があるのだ。さらに言えば、「塔を建てる」ことがみんなで協力されていたことも一考に値する。これは「みんなと一緒になって初めて、みんなと過ごしたこの場所を離れることができる」と捉えられよう。そこにおいて、個として成立するには周囲の人々が必要というパラドキシカルな命題が成立することになる。

こうした構造は、本稿後半での「舞台少女から舞台女優へ」という中にも読むことができよう。Tomoki氏は「舞台女優になる」ことについて、ライバルの存在が必要であると述べる。これも、舞台女優という「個」として確立した存在(c.f.舞台少女という未完成な存在)になるには、他者たる「ライバル」の存在が不可欠である、という逆説的な命題になりうるだろう。

私は「舞台少女」が目指す存在としての「舞台女優」とはどういうことかあまり考えられていないが、女子校という空間からの追放という視点も交えてこれを考察した本稿の議論は大いに参考になるだろう。

3-3. スタァライトにおける劇中劇と芝居 —シェイクスピア劇を通じて— Akatuki(@Ryoto_arete)氏

まず、シェイクスピア時代の「世界劇場」概念が恥ずかしながら初耳で、参考になった。

劇中劇の構造に関して、本作は他の作品よりも複雑な構造を取っていると私は考えている。というのも、「劇中劇」たる戯曲『スタァライト』の中にも「物語」が描かれているからである。その「物語」は村の言い伝えである。本稿の中でAkatuki氏は上のレイヤーでは新たなイメージが付加されていると指摘するが、それを踏まえると、言い伝えは星を手に入れるところまでで話が終わっているのに対し、戯曲『スタァライト』はその後の展開(少女の幽閉)のイメージを付加していると言えはしないか。また、本作最終盤で華恋は「演じ切っちゃった レヴュースタァライト」という台詞を発する。これも、「レヴュースタァライト」の世界=華恋たちがいる世界よりもレイヤーが上の発言のように感じられる。

劇中劇の構造分析を踏まえた結論として、本稿では「演じることは自分と向き合うこと」とされる。これは確かに腑に落ちる。英語の"play a role"という表現は、逐語的には「役を演じる」であるが、「役割を果たす」という意味になっている。すなわち「世界の中で自分がいかにあるべきか」を見極め実行するということであり、それはAkatuki氏の言う内省に近いことだろう。

3-4. 宇宙キリンの天体写真から読み解く『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 おぎ(@kumasawam)氏

3-5. 舞台少女は星の卵か 「野菜キリンと星空のシーン」の天体同定 もやし(@mohumohumoyashi)氏

(天文に明るくないので+似たようなテーマだったので一つの項にまとめて感想を書かせていただきます。申し訳ありません。)読んでいてびっくりした。さらっと書いてますけど結構大変なことやってません????

天体系統の知識があまりにも薄いため深く解釈することができないが(ごめんなさい…)、面白い考察だった。大局的な話をするなら、本作に自然科学的な視座が入っているというのは興味深い。宮沢賢治の童話のように、本作でも星のモチーフに対して自然科学的な意味づけができるのではないか、と感じた。

また、これだけ情報量が多いカットなのに9秒(作品の0.001%ほど!!)なのも信じがたい。本作の考察の幅広さ・困難さ・尽きることの無さを思い知らされた。

3-6. 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』から読み解くキリンの正体と結末 ぷるお(@ple_starlight)氏

これまで野菜キリンをキリンの異形態としかとらえていなかったが、確かに野菜キリンと肉キリンの「使い分け」は注目するべきところだと感じた。

本稿では両者の区別について「裏方」と「観客」の区別に対応し、キリンの2形態は「舞台創造科」の多義性に対応するとされている。こうした区別は、両者の媒質とも深く関わっているように思われる。アニメの諸シーンや劇場版冒頭に描かれているように肉キリンは、自ら行為を行うものであって、「主体性がある」と言える。これは、「肉」として統一的な生命体を持っている肉キリンの物質的な特徴と類比できるであろう。対して野菜キリンは、初出のシーンでは台詞を発しておらず、また二度目の登場シーンにおいても「自らは燃料である」という台詞に留まっている。こうした肉キリンに比して「主体性がない」と言えよう。

野菜キリンはその名の通り、野菜から構成されている。ここで肉キリンと対比させて考えると、野菜とは、それ単体では生きることのできない、いわば「死んだ」存在である。野菜キリンは「死」から構成された「生」なのである。こうしたモチーフが「再生産」の主題と共鳴し、またキリン自身が再生産の糧となることで、再生産の連鎖が示唆される、と言えはしないか。

3-7. 『舞台裏のキリンたち』 テリー・ライス(@terry_rice88)氏

面白い。というか拙稿と共鳴しているとまで感じさせる。キリン・眞井さん・雨宮さんの三者を東方の三博士に類比する様は、最初こそ「どうしてそう対応付けられるんだ?」と疑問に思ったが、たしかに言われてみるとそうとしか思えなかった。「おわりに」では「やや飛躍した推論」と自己評価しているが、キリスト教的文脈から本作を読んでいた私にとってはまったく「飛躍的」だとは思われなかった。

演出と脚本の違いについてあまり意識していなかったが、本稿はその違いを強く意識し、両者の役割の差について分析していて、非常に読みごたえがあった。それを踏まえて考えると「神サマもニクいよね 最高の演出家だね」は、世界の全てを司り決定する「脚本家」的な神のイメージから、物語の未完成性を受け入れる「演出家」的な神のイメージへと変化したのだと考えられる。

一方で、東方の三博士に比されらた彼女らが本作を経て、「彼女らもまた舞台少女である」とされるにあたって、どのようなプロセスが踏まれたかは更なる考察に値するであろう。すなわち、脚本の失敗から聖性を失った後、いかにして舞台少女たちと並列に位置づけられるのかについて、あるいは星の問題などについても、もう少し考えてみたいと思った。


(記事に関して、思うところや新たな着想などあれば遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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