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日記:僕は聖人君子じゃない

「あんまり人間関係に固執しない人だもんね」

最近身の回りで起きている厄介な人間関係。
それに片足を突っ込む程度に関わっている。
男女の問題から女子の問題。
当事者ではないが、無関係という訳でもない。
その話を聞いて思うところも、解決するために相談することもある。解決方は思いつく、それを共有する。もしも、あなたが僕ならそうすると言う。それでも、みんなは行動にしない。さらに良い方法があるのではと考え込む。じゃあ、僕のこの考えはなんなの?と思う。
そんな大変な大学生活にあるたくさんの問題の中で僕が関与するものがある。そこで必要かどうかは分からないが、僕が聞きたくて仕方の無いことがあったのでちゃんとした話す内容、理由、目的を持って聞いた。でも、その時の立ち回りは周りの人から理解が出来ないものだった。そんな周りから見たら意味不明な理由のある言動を理解するための言葉として、冒頭の言葉を言われた。

人に固執しないから、そんな風な言葉を選べるし言えるんだ。今の希薄な人間関係をわざと構築しているように見える僕に向けての彼の言葉。
僕はそうなのか?初めて人に言われた言葉だ。人に比べれば、ありえないほどに妬くし、独占欲も依存性も高いはずだ。それは理解している。そう思っている。でも、周りから見たら違うらしい。

固執か。
そうなってることを認めたら、原因はあるのかもしれない。少し前の過去に思い当たる節がある。
僕がどれほど大切に思っていたって人は裏切るのだと、僕は過去から知っているではないか。
それが今初めて言語化されただけで、あの日に根本から変わっしまったのかもしれない。
僕がどれほど愛しく思ったって、どれほど考えたって、僕にとってあの子がどれほど大切な存在だったとて、あの子にとって僕が特別だったって、その想いは虚しく伝わらずに散ってしまった。何を考えていたのか分からない。あれほど大切に思っていたはずの人を恨んで、憎んで、それでも忘れなくて、苦しんだ。

それが原因だとするなら今の僕の「固執しない人」と言うイメージは合っていると思う。重要なのは「僕の感情」ではなく「相手の事実」と考える。人間であるが故に好き嫌いは必ず生まれる。相性がぴったりの人間なんて人はいないと言い切ってもいいくらいに出会えるわけが無い。80億分の1だから。確率の話で何パーセント以下ならゼロパーセントとしてもよい、と言われている。それと同じ。だから、人に必要なのは分かり合うこと。お互いの良さ悪さを認める。それでも、「一緒にいよう」ということが必要だと思う。それには僕がどれほど歩み寄ったって意味がない。限界がある。あちらからも歩み寄ってくる必要があると思う。原因の過去の話は最大限理解するために歩み寄った。理解する端っこまで行って、周りの人達のおかげでふと目が覚めて、歩いてきた道を恨んで帰った。
そこまで行ったのに分かり合えなかった経験をへて「相手の感情など僕の考えには無駄」と思った。仕方の無いことだと割り切った。その経験からなる諦めの選択が"固執しない人"と言うイメージを作ったんだろ。
この話の厄介だと思うところが自覚がなかったこと。自分は周りに比べれば愛が深い存在だと思っていた。みんなのことは大切には思いたいと思っている。それでも、みんなからそう言われる。悲しいよ。

今回の問題も相まって色々な人と話している。
その人のダメな所を指摘したり、「俺だったらそうしないや」と言って「確かに」と説き伏せる解答をだして羨望の眼差しでみられたり、個人の感想であるのに人間性までも訂正したり、何もかも分かってるふりをして完璧にも相談をのったり、まるで僕が完璧な人間性を持ち、最高の自己の存在としての人間を確立させて、最高の聖人君子のように扱われそうな気がしてくる。そんなことないじゃん。
あんまりにも周りの人の人間関係の構築が下手すぎて、生きるのが下手すぎて、僕は生きるのが上手に思えてきた。下手だと思ってたのに。それは申し訳ないけど確実にそうだと思える。周りの大変さは必然じゃなくて、招いたことである。その証拠に僕は何一つない。だから、下手くそだと吐き捨てる。対照的に下手くそだと思った自分がそんな状況に置かれることはないと自信を持って言える。なら、僕は生きることが上手だと思える。
そう思うのは事実だけど、このままでは天狗になりそうな気がして怖い。それ以外にも欠点は沢山分かってる。というか自分から見る自分なんて欠点の塊だ。それは何が起きてもそう。そんな中、聖人君子のように扱われることは恐ろしい。聖人君子という清らかな言葉を自分を飾るために使うことに違和感はある。でも、一旦はそう言ってしまおう。

みんなの思っている自分とのギャップがありそうで今はとても怖い。恐ろしい。


もうひとつ。
恋愛相談を受ける上で「ほんとに好き」という恥ずかしい言葉を何も思わず吐く人がいる。
それについての考えは昨日だか一昨日だかで語った。2人そんなことを語る人がいるのだが、その人に向けて「本当に好きなら行動した方がいい。なにしたって後悔するんだから」と言って勇気を与えてる。それで2人は行動に移している。
「なにしたって後悔はする」というのは僕のモットーだ。やらない後悔よりやる後悔とはまた違う意味を僕は与えたい。僕が与えたいのは「何を考えて行動したって後悔はするんだから、何を考えたって無駄なんだ。だから、今くらいは後悔なんてしないように、やりたいことをやって、楽で楽しいことをやった方がいいよ。」と言う意味。諦めの言葉。そういう風な意味だよと語ってる。
僕はあの人たちと同じように「本当に好きな人」がいた。でも、彼らのように勇気を持って行動したと胸を張って言える自信が無い。しっかりこの先に今の決断の後悔が付きまとうことも知った上で、決断をした。友達に偉そうに語った上で、そんなことでいいのか?言えなかった後悔している未来の存在が確かにあることは知った上で、諦めを選んだと言うことでいいのか?それを乗り越えるのが彼らに与えた勇気ではないのか?自問自答。
そりゃあ、俺も思うようになりたいよ。
でも、思うようになるというのは僕にとってはただ告白をすること。付き合った先はなりたいものじゃないものが見える。あいつが僕のことを好きにならないまんまでずっと付き合ったりする。言葉を上手く使えば付き合えると思う。友達として付き合うだとか、今のまんまの距離感で付き合うとか。他の人とは違う平凡な意味での特別が彼女にとっての僕だ。変わりはいないかもしれないけど、この存在は付き合うために存在してるわけじゃない。だから、複雑に腐った脳みそで考える。付き合える付き合えないじゃない。というかそれを考慮した上で告白なんてことはしないか。告白は付き合うためにするんだから。付き合えるかもしれないけど、僕は付き合った先を、彼女が僕を好きにならない未来をそれでもいいと認めることが出来なかった。そして、好きになるまで頑張るって言う勇気も、それを実現するほどの自信もない。だから、諦めた。これを否定することはできると思う。勇気さえあれば超えれる壁だと思う。わかってる。でも、僕は諦めるんだ。様々な後悔の形がある。彼女が別の人と付き合って、キスでもして抱き合って、知らない顔で笑ったり、それどころか何も無く伝える時間もなく彼女が突然死んでしまったとしても。考えがまだ及んでない後悔があったとしてもその全てを受け入れる覚悟で諦めを選んだんだ。

こんな文を書いてて思うけど、つくづく僕はあの子のことが好きだ。苦しいくらい好きだ。この気持ちは嘘じゃない。あいつらが恥ずかしい程に語る「本当に好き」は僕も持ってる感情だ。だから、応援する。こんな哀れな人になって欲しくないから。

彼らに与えた勇気は僕にも息をかけてきた。「あんなに頑張る人がいるんだから、僕も頑張ってみようかな。」と思う。頑張りたい。でも、何度考えたって同じ考えにたどり着く。ここでたどり着いた境地について語っても同じことを言うだけ。さっきも言ったじゃん。考えたって無駄になるって。

やっぱり、僕が何を思ったって意味がなさそうな世の中で苦しい、息がしずらい。なら、今の大学生活の立ち回りも理解ができる。固執しないところ。全てに通ずるんだね。あーあ。

うるさいよ。サイゼリヤの定員が。
接客態度良すぎるんだよ。レビューに書くぞ。
星5で定員さんの口調から立ち振る舞いまでまるでファミレスとは思えないほどに立ち回ってる人がいらっしゃいました。って
ごめんな、280円で2、3時間も居座って。
今度はお金をいっぱい持ってくるよ。
てかもう、ラストオーダーの時間か。
明日も早い時間からバイトだ。
土日に休む暇はない。でも、大学生だ。平日が休みみたいなもんだろう。精神的にはすっごく疲れるけど、昼過ぎまで寝れる日は2日ほどあるんだから。きっとこのしんどさも甘えのように見えるんだろうなぁ。見えると言うか僕自身もそう思っている。そう言えるのにはもっと自分は頑張れるから。どうしても出来ない、頑張りたくても頑張れない訳じゃなくて、単純にめんどくさいだけだ。それは甘えだろう。

そんなこと考える必要のないところで生きてみたかったなぁ。

2500文字の興味のある教育に関するレポートを書くことに苦労しているのに、自分の日々の心の話になると手が止まらず3500文字オーバーを容易く書き切る。
自分のこと大好きなんだね。