山仕事のための読書ノート⑥こどもの時間

 

冬の朝の時間 

 根羽村に来て三度目の冬を迎えている。
一月下旬、小雪がちらつくが雲間に青空ものぞく今日の朝の気温はマイナス10度。冷たい。今住んでいる老平の山小屋は、見晴らしがいいぶん谷から吹き上げる風が強い。家の窓から見える目の前の林はうっすらと雪化粧した鈍い深緑をさわさわとゆらめかせている。ときおり太陽の光が差し込み、木々の陰影が深まっては、また薄らぐ。淡い雲の影がゆっくり動いていく。杉・桧・赤松のごくありふれた人工林だが、刻々と変化する様子をぼーっと眺めているのは飽きない。焚き火の炎を見ているのと同じような感じだ。強い風が枝に積もった雪を吹いて、煙のように舞い上がって空に消えていく。

自然においては、ある瞬間と次の瞬間が同じ状態であることはあり得ないという、当たり前のことにふと気付かされる。木々も極々わずかであるが日々成長しているはずだ。でもそれを感じとることはできない。

ありふれた、いつもと同じ風景という「感じ」は、人間の脳が作り出す幻想だろう。微細な違いは、ノイズとしてキャンセルしてしまうのではないだろうか。脳の負担を減らすための情報処理。いつもと同じ日常。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」世界はいつも変わらないように見えるが、本当は変わらないものなど無い。昔の人はよく言ったものだと思うが、あえて言葉に残さなければいけないほど、それはまた、当時の人々にとっても留めにくい感覚だったのかもしれない。

また窓の外に目をやる。いつしか雲は流れ去り青空が稜線の林の輪郭をくっきりと浮かび出している。ん、よく見ると杉と赤松の間に数本、かすかに白く青みがかった葉っぱの色の違う木がある。赤松だと思うけど葉が新しくなったのかな、気になる。今度確認しに行ってみよう。

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こどもの時間

「僕の好きな場所を案内するから、ついてきてー」

他の園児に比べてひと回り大きい体つきのその男の子は、僕たちを園舎の裏側に連れて行った。低木の雑木が生い茂る土の小道。その日はご縁があって飯田市にある自然保育の幼稚園に職場仲間で見学に来ていた。

「ここでカブトムシを捕まえたことがあるんだ、それから、あそこの木には蜂がいるから行っちゃダメだめだよ。つぎはこっちに行くよー」

朝露が木漏れ日をキラキラと乱反射させる。地面から湧き立ちまとわりつく湿気。草の匂い。朝から(というか、いつでも?)ナチュラルハイなその子の後を追って小道をくぐり抜ける。
移動しながらその空間を身体全体で感じると、すごく久しぶりに、そしてかつてないほど鮮烈に、こどもの頃の感覚がデジャヴのようにフラッシュバックしてきた。特定の記憶を思い出す、というより、こどもの頃の総体的な感覚の記憶が立ち上がる、と表現した方がいいだろうか。それとも単純に、自分もかつてこどもだったことを思い出した、とだけ言えばいいのかもしれないが。とにかくまんまと彼のナチュラルハイに伝染させられてしまったようだ。

「まだ案内したいところがあるんだよー」

園舎を一周した後もまだ連れまわされる。この終わらない感じはこどもの時間感覚だ。雑木の小道をくぐり抜けながら降りてきたデジャヴ感も、空間体験(視覚体験?)というより、時間体験の感覚なのかもしれない。
 
その後はみんなで川に行って、ザリガニを釣ったり桑の実をとって食べたりして遊んだ。のんびりした良い時間だった。その日一日、僕はそんな浮遊感に満ちた「こどもの時間」の中にいることができた。

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森の時間

夏の終わりに安城市の小学生がたくさんやって来て、矢作川水源の森を一緒に散策した。
ナタで笹を切ったり、木の枝を拾ったり、川に石を投げたり、カエルを探したり、面白そうな場所を探してうろついたりして遊んだ。
森林組合職員として、天然林と人工林の違いや水源涵養のための間伐の効用などについて説明してほしいと言われていたのだが、それはあまりうまくできなかった。

 散策の途中、道端にあった苔むした古い切り株がふと目についたので

「ねぇ君たち、この切り株は生きてると思う?」
と聞いてみたら、ほとんどの子が
「生きてると思う」
と言った。

* * *


永遠の時間

 昨年(2022年)、映画監督のジャン=リュック・ゴダールが亡くなった。とくべつにファンだというわけでもないのだが、訃報を聞いての感慨はあった。とても有名な映画監督ということで、学生時代に教養として彼の映画を数本観ている。残念ながら理解力及ばず内容はほとんど憶えていないし、なんなら大抵の場合途中で寝てしまったのだが、「気狂いピエロ」のラストシーンだけはひどく印象的に憶えている。主人公が顔にダイナマイトを巻き付けて自爆する。岬の上にある建物から爆煙が立ちのぼる映像からカメラは横にスライドして海を映す。そこにランボーの詩の冒頭の一節が朗読される。それはこんな詩だ。

また見つかった
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
       アルチュール・ランボー「永遠」 (小林秀雄訳)

僕は詩をほとんど読まないのだが、この詩はよくわかるような気がして好きだと思った。
 
 永遠を、たまに見つけてしまうことはある。それはけっこう日常の中にあるからだ。例えば虹が出ているのを見てハッとした時、そのハッとした一瞬の中に、永遠の感覚がある。永遠は果てしなさの感覚だが、それは瞬間の中にあるものだ。
昔の偉大な哲学者カントは時間をアプリオリなものとみなしたが、最近は、科学、哲学の双方から、時間は人間の意識が作り出しているものだと言われているようだ(そういえば寝ている時も時間は無いと言えるかもしれない)。
ハッとしたそのまさに一瞬には「自分」はいない、意識は追いついていない、ゆえに、時間が無い。時間が無いということと、時間が無限にあるということつまり永遠は、たぶん同じことである。

無老死亦無老死尽。

でも「永遠」がそういうものだと理解したところで、なんの役に立つのだろう?

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