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慈父

茂兵衛爺さんの掘っ立て小屋の中には土間があり竈門があった。
爺さんは竈門に火をくべて飯を炊いた。
「亡者は飯を食わなくともかまわないんだけどさあ!生きてた時の習慣で飯の時間を割いてるんだなあ!わしは!ついつい生きてた時通りの事をしちゃうんだ〜。ほら!そうすると気分転換になるじゃな〜い。気分を散らさねば魂があっちの方へ散っちゃうんだわしは!」爺さんはぺらぺら喋りながら味噌汁もこしらえた。
おいしそうな湯気が小屋の中に立ち込めた。食い物の匂いに餓鬼ちゃんはそわそわして自分で彫った熊の木彫りをなで回している。
私は少し餓鬼ちゃんと打ち解けてきた気がしたので、(餓鬼ちゃん。その熊を見ていいか?)と手ぶりで熊を指差し熊を抱くまねをしてみせた。餓鬼ちゃんは幼気いたいけな子牛のような濡れ濡れとした瞳で私の顔を見た。その瞳の中に私が映って見えた。
その私は15歳で死んだ青ざめた私そのものだった。私は餓鬼ちゃんの瞳の中の自分にあ然として見入った。
餓鬼ちゃんが瞬きをしてそうっと木彫りの熊を差し出したのでハッとした私は(ありがとう)と頭を下げて受けとった。
温かみのある鮭をくわえた熊は新しい木の良い匂いがした。大振りな鮭をくわえて熊の目はにっこり笑っている。
餓鬼ちゃんの素直な優しさが現れているように感じた。すべすべする熊を撫でると餓鬼ちゃんが丁寧に作った事がわかった。
(これは、大事なものだね。)と私は餓鬼ちゃんに頷いた。餓鬼ちゃんは何度も頷いた。
「うお〜い!飯が炊けたぞーい!運んでくれいな!餓鬼ちゃん飯運んでくれい!お姉ちゃんは漬物ばつぼから出してくれえ。」
茂兵衛爺さんがそういうので私は土間に下りて漬物つぼをあさった。
塩漬けの青菜があった。(これは野沢菜漬けか?)私はひとつかみの菜をまな板にのせ適当に切った。その辺の皿に盛ると板の間に運んだ。ちゃぶ台などないので床に食器を置き、木の板の上に味噌汁の鍋を置いた。
「いやいや、うまそうに米が炊けたぞ!汁はな濃いめの空汁(具のないみそ汁)だ。
それに野沢菜じゃ。わしは信濃の出でのお。
野沢菜は欠かせん。どれ、ご飯をよそってしんぜよう。」茂兵衛爺さんはお櫃に移した飯を運んできた。
それから餓鬼ちゃんのふちのかけた大きい茶碗にふさりと白飯を持った。
それから私の白い小さい茶碗にふさりと飯を盛った。私は3つのお椀にみそ汁をよそい、それぞれの前に置いた。
「さて、いただきます。」茂兵衛爺さんが姿勢をただし食事に向かい一礼した。
餓鬼ちゃんは白いご飯を前に食い入るように見つめた。私は箸を取り味噌汁をすすった。濃い信州味噌の風味が鼻に抜けた。しっかりにぼし出汁をとり白い飯に具のない味噌の濃い汁は飯のよき伴侶であった。
それに野沢菜漬けがあればご馳走である。
餓鬼ちゃんは茶碗の中の白飯を見つめたまま動かない。茂兵衛爺さんが「あんれぇどうした餓鬼ちゃん。餓鬼ちゃん食べていいんだよお?」と餓鬼ちゃんに言った。それから私に向かって「餓鬼ちゃんは食べても食べても死ぬ程お腹が空いてしまって苦しむんだよお!いつも飢えて彷徨っているんだよなあ!餓鬼の住処ではそうだったんだけどわしの庭に来てからは飯を食うと飢えは少しづつ癒えた。なあ?餓鬼ちゃんや。」
餓鬼は泣きそうな顔で茂兵衛爺さんを見た。私も息を飲んだ。餓鬼ちゃんが口を開いた。
「飯…白いまんま。真っ白いまんま…。この茶碗にまんま…。」と両手に茶碗を包みこむようにした。「死んだとき、飯、ひえと少しの草の汁だった。ひもじい…ひもじくて」餓鬼ちゃんが私にも聴き取れる声で話すのをはじめてきいた。
「茂兵衛爺さんありがとう。」
餓鬼ちゃんの言葉を聴いた茂兵衛爺さんは餓鬼ちゃんの頭をなでてぎゅうっと餓鬼ちゃんを抱きしめた。「餓鬼ちゃんは偉い子だ。忘れるなよ。餓鬼ちゃんはわしの子だよ。わしは餓鬼ちゃんが大好きだからねー。」と餓鬼ちゃんの顔を両手で包み爺さんは本当に愛おしそうに餓鬼ちゃんに笑いかけた。
慈父…私はそれを見てそんな言葉が思いうかんだ。我が子のように彷徨い苦しむ餓鬼を慈しみ、彼らの無明の闇を照らし、行道のあかりを灯す存在。地獄に茂兵衛爺さんあり、彼こそが餓鬼達にとって地獄の仏、救いなのだ。私は感動しながらも飯を食べた。茂兵衛爺さんの炊いた飯はめちゃくちゃ美味しかったので食べだしたら止まらなかった。野沢菜漬も適度な塩加減とシャキシャキした歯ごたえ少しピリッと爽やかな清々しい漬物でたまらなくうまかった。餓鬼ちゃんはご飯茶碗を置くと立ち上がり「それでは、さようなら。
お爺さんありがとう。お姉ちゃん、さようなら。」と小屋を出ていってしまった。茂兵衛爺さんも餓鬼ちゃんを止めるでもない。
(餓鬼ちゃん、ご飯食べないでいっちゃうの?このまま、生まれ変わりにいっちゃうの?)
私は飯を咀嚼しながら茂兵衛爺さんを見た。

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