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受動的攻撃について考える

ひとから優しくされたとき、感謝の言葉をもらったとき、ときどき、
「これは本当の優しさなのか?」
「『ありがとう』という言葉を借りた皮肉なのではないか?」
と感じることがある、ということに気づいた。
きっかけは今日の昼間、職場で。ある場所の片付けをしていた子が休憩に入ったので、手の空いていたわたしはその続きを片付けていた。彼女は休憩からあがって、わたしに「きれいにしてくれてありがとうございます」と言った。「いえいえ」とわたしは答えたのだが、そのときに何か引っ掛かるものを感じたのだった。

少し自分を観察してあることに気づいた。
「きれいにしてくれてありがとう」という言葉を、果たしてわたしはそのまま文字通りに感謝の意味だと受け取っているのか? おそらくそうではないと感じているから、わたしは引っ掛かったのではないか。では、どう感じたのか? 
わたしはその感謝の言葉を、「きれいにしてくれてありがとう」という言葉を、「いつもならやってくれないのに今日はしてくれたんだ、珍しいわね」という意味を込めた、ある種のわたしへの攻撃なのではないか、と捉えたのではないか。言葉の裏というか、含みというか、そのようなものを察知したのではないだろうか。
そこまで考えが行き着いたとき、「受動的攻撃」という言葉を思い出した。

受動的攻撃(Passive aggressive:以下PAと表記)とは、
「怒りを直接相手に伝えるのではなく、遠回しに表現して相手にネガティブな感情を抱かせようとする攻撃のこと」
である。
代表的なパターンとして、
・無視、黙る
(相手を無視する事で、自分の怒りを間接的に表現している)
・さぼる、怠ける
(何か自分の思い通りにならなかった時や怒りを感じた時に、仕事を遅らせようと意図的にサボったり怠けたりする)
・落ち込む
(わざと大袈裟に落ち込んでネガティブな感情を伝染させようとする。はぁ…と大袈裟にため息などをついて、相手に罪悪感や不快感を与えようとするなど)

※PAの代表的な行動パターンは以上のようなもので、今日わたしが掛けられた言葉は決してわかりやすい例ではない。むしろ、この出来事とPAとを関連づけることは無理があるのかもしれないと思う。
これから書くことの本題は、「今日の出来事がPAであるかどうか」というところではなく、「わたしがPAというものをどのように捉えているか」というところだということをあらかじめ伝えておきたい。

今日の出来事に限らず、相手の言動に他意があるかどうか(≒PAであるかどうか)はすぐにはわからないかもしれない。確認が難しいことだからだ。もしその言動に意図的に攻撃性を含めていたとしても、「そんなつもりはない」と言い逃れることができる。今日の出来事を例にとると、相手は「わたしは感謝の意を述べたまでで、いつもはしてくれないという非難や、あら珍しい、などという皮肉は何一つ言葉にしていない」と主張できる。そしてその主張は、表面上何の偽りもない。
つまり、相手の言動について、それをPAだと感じるか否かは、自分の捉え方次第だと言える部分もあるのではないか? 「長期に渡り繰り返し約束を破られる」「聞こえているはずなのに無視をされる、返事をしてくれない」など、(どこからという線引きは難しいものの)あからさまな言動になれば判断もつきやすいが、確認の取りにくい言動について、そこに攻撃があるかどうかは、自分に判断を委ねられる部分もあるのではないか?
極端に言ってしまえば、「自分が被害者になるか」「相手を加害者にするか」は、自分で決められることなのではないか?


そして、相手の言動に対して「これはPAではないか」という発想が出てくるのは、過去に自分が誰かに対して、意識したPA行動を取った経験があるからなのではないか、とも思う。
今日の例で言うと、わたしが相手の感謝の言葉に裏があるのではないかと感じたのは、過去にわたしが誰かに「(いつもはやってくれないのに)やってくれてありがとう。(まあ珍しいこと)」と声を掛けた経験があるからなのではないか、ということだ。「ありがとう」にわざわざ感謝以外の意味を見出すということは、わたしがかつて、誰かに感謝以外の意味を持たせた経験があるのではないか。もしこのような経験がなければ、つまり「『ありがとう』にそれ以外の意味を持たせるという発想」がそもそもなければ、相手の言動をPAだと認識する発想も生まれないのではないかと思うのだ。
そう考えると、多少乱暴ではあるが、「相手の行動をPAだと感じる≒自分のPA行動の経験を認める」という図式が成り立ちはしないか?


PAに関しての加害・被害に限らず、以前よりわたしが漠と感じていることなのだが、被害者が被害者であることを声高に語ることについて、何となく違和感を持つことがある。
PAについて自分なりに少しだけ掘り下げて考えてみると、何だかその違和感と点で結ばれるところがあるような気がした。誤解は怖いのでこれ以上は言葉にしかねる。そもそも、簡単に結論や正解を出せる内容ではない。これは、あくまでも今日のわたしが直感的に感じた範疇での内容だ。

ちなみに、わたしの個人的な言動パターンを顧みると、「わかってほしいのに相手はわかってくれない」という感情が行き過ぎたときに出る行動にはPA要素があるような気がする。「わかってほしい」は「境界線を越えてでも読み取ってほしい」であり、あまり健全ではない。健全でないときの言動がPAという不健全さで現われるのは、なんだか自然なようにすら思えないだろうか?

「さっきの相手の言動はPAだよ」と、他人が判断してくれるのは精神的に一番らくであり、正解に近いように感じる。「傍目八目」という言葉があるように。
ただ、当事者がそのとき持った感情も大事なんだよなあ、とも思う。直感的な違和感や嫌悪感は当たることも多い。(まったく感覚的な意見だけれど)

あまりうまくまとまらないけれど、これが今日感じた気持ちと思考。もう少し時間をかけてゆっくり考えたいと思う。

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