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猫じゃらしを引っこ抜く

からだにしんどい思いが溜まってしまったとき、こうやって抜いていくの。
最初は頭のさき、つむじの辺から一本、しゅる、って。次は左の耳。しゅるしゅる。抜けたら右の耳。しゅるしゅる。次はどこだと思う? 鼻の穴だよ。左の鼻から、しゅるっ。右の鼻から、しゅるっ。ここまでで五本抜けたね、どうかな、まだからだ重い? 次はどうしようね。うんと、手の指かな。一の指からしゅるり。二の指からしゅるり。一、二、三、四、五、と左手が終わったら、右の手に行ってみようね。一の指、二の指、三の指…、全部できた? まだ行くよ、次は足の指。左の足、右の足。しゅるしゅるしゅる。どんどん抜けたね、軽くなったかな。今日はこれで終わり。明日はどこから抜いていこうか。好きなところから自分で決めて、しゅるしゅるってやってみようね。

幼児をあやすような言葉を掛けてもらいながら、わたしのからだから、細くて淡い黄緑の、まるで猫じゃらしみたいなものを少しずつ抜いていく。しんどい気持ちをからだから出していくイメージ。耳の穴を通るその猫じゃらしは、いくらかくすぐったく、抜けた後は風の通りが良い。鼻は少しむずむずするけれど、そのあと新しい世界の空気を吸えるのだった。指先から出るそれは、なぜだか追いかけたくなる。その気持ちをぐっと抑えて手放す。そう、手放すんだ。


暗い森の中にいるみたいだった。森の中にいると、自分がどこにいるのかわからなくなる。林立する木々の深い緑は闇みたいに黒くて、こころ細さが増す。早く森を抜けたい。光の見える丘に上がりたい。丘に上がるとさっきまでの森が見渡せるのだった。わたしのいたのはあの松の木の辺り。丘の上でそうやって確認すると、わたしはいくぶん安心して、丘を下ることができるのだった。


夜中一時半、雪が降ったみたいに部屋が突然あかるくなる。同居人が起きて電気を点けたのだった。
「どうしたの」
まだ寝付いていなかったわたしが言う。
「目が覚めた。のど渇いた。あーのみすぎたかもしんない。やべ。水。とりあえず水」
水って二回も言ったのに、飲んでるの炭酸水じゃん。冷蔵庫からペットボトルをらっぱ飲みしている。
「あー生き返った。おやすみ。明日スパゲッティ食べたくない?」
「え、突然。いいけど」
「たらこスパゲッティね。おやすみ」
ぱち。電気が消える。布団に倒れ込む、どさっ、という音。
ぼわっと拡がってはもつれ、遠くまで走るように、水が細く流れるように、ときにたてがみのように上る、その生きていくための光。暗かったり、すさまじかったり、不運だったり。しみじみして、わたしは水銀の玉みたいな光に吸い込まれる。おやすみ。わたしも誰かを思って祈りながら眠る。

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