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ある午後の思い出

「ユウちゃん」
手を洗っていたら背後から名前を呼ばれた。あれ、いつもの声じゃない。すぐに振り返りたかったけれど、振り返ったら泡と水が飛び散りそうで、でも早く顔を見たくて変な姿勢になった。五秒待って。こころの中で誰かに言う。誰か? 誰かはわかっている。声の主はれいこちゃん。でも、なんだかれいこちゃんの声じゃない。でも、この家にはわたしとれいこちゃんしかいない。わたしはあのとき、れいこちゃんと住んでいたのだ。

泡を流して水気を切って、ようやく振り返る。どうしたの、そんなかなしそうな声で。タオルで手を拭きながられいこちゃんの顔を探す。わたしが反応したことに満足したのか、れいこちゃんはぺたぺたと足音を立てながら奥の部屋へ歩いていった。そして、ぼふっ。ベッドに倒れ込む音。

「ただいま。どうしたの」
「(おかえり)」
枕に顔をうずめて、声がくぐもっている。人見知りの亀みたいに背中を固くして動かない。
「どうした~~?」
ゆるくパーマのかかった髪を梳くように撫でながら、わたしはつとめて明るい声で言った。自然な茶色の柔らかい髪の毛。れいこちゃんの髪は見た目を裏切らない柔らかさだ。このまま筆にしたらすごく肌当たりが良さそう。ってヤギか。ってチークブラシか。アイブロウブラシじゃないな。ブレンディングブラシにもいいな。
「(おなかいたい)」
「ん?」
「(おなかいたい)」
「お腹痛い?」
「(うん)」
うん、と言いながらちゃんと首を縦に振ろうとする。シーツと枕と顔がこすれて無声音みたいな音がした。sとtとzが混じったみたいな音。
「んーと、生理痛?」
無声音を立ててれいこちゃんは首を横に振る。そして亀に戻る。
「どこが痛いの?」
亀の姿勢から右手をわずかに動かして、腹部をもぞもぞと触る。もぞもぞ。もぞもぞ。そして起き上がって言った。
「わからん」
顔を上げたれいこちゃんを見て、瞬間、わたしは目をそらしてしまった。加えて、無意識に眉間にしわを寄せてしまったかもしれない。あ、泣いたあとの顔だ。それも、長時間ひどく泣いたあとの。

どんな言葉をかけていいかわからなくて、そして目をそらしてしまったことを少しばかり悔やんで、わたしはれいこちゃんの右手を握った。
「お腹痛いね?」
こわごわ、泣きはらしたれいこちゃんの顔を見る。目を合わせる。左目と右目を何度かうろうろして、いつも通り右目に焦点を合わせる。れいこちゃんは、目の前のわたしを見ているようであり、遠い景色を眺めているようでもあった。わたしを通り過ぎて、遠くにある架空の山なみを飛び交う野鳥を眺めているような。

「痛くないよ」
「え?」
「痛くないよお腹。ごめん、お腹なんともない」
れいこちゃんはわたしから(あるいは、架空の山なみを飛び交う野鳥から)視線を落として小さく言った。
「そういうことってあるでしょ。なんか、流れでお腹痛いって言っちゃうこと」
「…流れで、お腹痛いって言っちゃうことかあ」
「あるでしょ。なんか、とっさに何か言わなきゃ、って感じの流れになって、お腹痛いって、つい言っちゃうこと。嘘なんだけどさ、まあ他愛ないっていうか、わりあい無害っていうか、べつに後腐れなくて、人生の『嘘カウント』からは除外されるようなレベルの」
「人生の嘘カウント」
「そういうのない?」
「人生の嘘カウントって初めて聞いた」
「わたしもいま初めて言った」
「初めてかい」
かい、と言いながら握っているれいこちゃんの右手をぎゅっとした。そしてちょっと笑ってしまった。あ、笑って大丈夫だったかな、と瞬間よぎったけれど、つられてれいこちゃんの目尻が下がったのを確認できて安堵した。

「ワカメにも嘘ついてしまった」
「お腹痛いって言ったの?」
「うん」
ワカメというのはれいこちゃんの彼氏の愛称だ。初めて彼の写真を見せてもらったとき、思わず「(サザエさんに出てくる)ワカメちゃんみたい」とわたしが漏らしてしまったのが始まりだ。なんていうか、たぶんおしゃれな髪型なんだけど、印象がワカメちゃんみたいなのだ。なんていうか…なんていうか…ちょうどいい言葉が思い出せない…えっと、えっと、あ、「いなたい」だ!
(※いなたい:田舎臭い、泥くさい、垢抜けない、素朴な、ダサい、といった意味の俗語、関西方面の方言。地味でもっさりとした服装や考え方をする人に使われる言葉…だと? わたしは垢抜け都会ブランド「ジャーナルスタンダード」のYouTubeで知ったのだが?)

「お腹痛いっていう嘘は、噓カウントに入らないんでしょ」
「そうだけどさ」
「ワカメに罪悪感持ってんの?」
「罪悪感っていうか」
言葉の続きを探しながら、れいこちゃんは欧米人みたいに肩をすくめて両手をあげた。その身振りが、なんだか話を終わりたそうなサインのように見えて、わたしは立ち上がって台所へ行った。とりあえずお湯を沸かす。何かのみたいか聞いたほうがいいかな、それとも「落ち込んだときにはこれが効くんだよ」とか言って勝手にチャイでも作るほうが気が利く同居人なのかな、なんて考えていたら、れいこちゃんはかばんの中をごそごそ探って、一冊の本のようなものを出してきた。
「見て」

「おお…」
「ワカメにもらった」
「おお。ワカメ、こういうことするひとなんだね。案外ロマンチックなの? なんか初々しくてかわいいね」
2センチほどの厚みの、掌に乗るほどの大きさの本だった。『一緒にしたいこと100』。1から始まる空白のページに、相手と一緒にしたいこと(叶えたいことなど)を記入していくノートのようなものだ。
「ね、初々しいよね。全然ワカメらしくないよ。二冊買っててさ、それぞれに書いて見せあいっこして、ひとつずつやっていこう、って言うの」
「高校生みたい」
「いまどき高校生でもしないんじゃない?」
ぱらぱら漫画をめくるみたいに、だららららっとページをめくる。真新しいそれはしなりが悪い。手遊びをするみたいに何度もめくっていくうち、1から100までの大きな数字と、空白の吹き出しが並んでいるのが見えた。

「うれしかった?」
手持ち無沙汰にページをめくるれいこちゃんに、わたしは言った。すぐには返事がない。そうだろう、と思う。
「うれしかった?」
「うれしかったけど、なんか、よくわからなくて、お腹痛いって言って帰ってきちゃった」
「ええ!?」
まさかここで伏線回収ワードが出てくると予想できず、語尾が裏返ってしまった。れいこちゃんは、へへ、みたいな口元で楽しいような寂しいような顔をしている。
「あー、こういうとき、わああ~、ありがとう~!てな感じで、たとえ内心がどうであろうと素直を装ってお礼を言えばいいんだよね。わかってる。わかってるんだよ、それができてないことは。で、できてないのは全部自分の問題で、その問題が厄介で見つめたくなくてとりあえずお腹痛いとか言っちゃうんだよね。いや、言ったの初めてだよ、ワカメには。でもまあたぶん似たようなことはこれまでもしててさ、あ、ワカメ以外にもね、あでもユウちゃんにはそんなしてないよ、たぶん。まあそうやって腹痛女子と偽って帰宅したわけですわ」
「そりゃ厄介だねえ」
「で、ひとりで部屋にいたらなんかめっちゃ泣いてしまった。情緒やばい」
「わたし並みにやばいね」
「それはやばいっす。泣いてたの見て引いたでしょ」
「引いたっていうか、びっくりした。ごめん」
「いいよ」
返信しなきゃいけない通知を無視している携帯電話を扱うみたいに、れいこちゃんはその本をベッドに投げた。
「ねえご飯食べ行こ」
立ち上がって洗面台の前に行きながら、れいこちゃんは言う。ゆるく波打つ髪を無造作にまとめている。
「ひさしぶりにナン食べ放題のカレー屋行きたい。めっちゃ辛いカレーでナン十枚くらい食べようよ」
「うん」
あー化粧直すから待ってね。れいこちゃんの言葉を背後で聞く。日が暮れる。投げられた本の横に座って、脚を組んでぼんやり外を見た。


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