食堂のオバマの話
いつもの食堂で、白ご飯とアビチュエラ、牛肉を焼いたやつ、ナスのおかずを食べている。
いつもは安い鶏料理を頼むのだが、今日は牛肉。190ペソと日本円で100円ぐらい高い。
「チーノ!美味しく食えよ!」
ドレッドヘアの兄ちゃんが右隣の席に着きながら、声をかけてきた。ちょくちょく見かける顔見知りの兄ちゃんだ。サンバイザーみたいな帽子を被っている。
「ありがとう。でも俺日本人やで」
「そうだったのか!韓国人に見えたよ!」
なら初めから韓国人と呼べよと思いながらも、やはりテーブル席に座って正解だったなとほくそ笑む。こういう何気ない会話を増やしたくて、最近はカウンター席ではなく、テーブルで知らない人と相席するようにしている。
「そう、こいつは日本人なのさ」
会話に割って入ってきたのは、白髪を短く刈り込んだおじさん。元アメリカ大統領のオバマみたいな顔をしている。私の左隣に座った。
「日本人は顔が丸いからな。彼は韓国人だと思ったんだよ」
ドレッドが言う。続けて、私を見ながら「日本人は身体つきがチーノよりたくましいな」とも。ドレッドの思う日本人男性像は、丸顔でガタイの良い男らしい。
とりあえず体格を褒められたようなので礼を言うと、オバマが何か尋ねてきた。
何と言っているのか分からないでいると、彼はリュックサックから黒い箱を取り出し、手渡してきた。中身は香水だった。
はぁ……またオバマときたら……
「どうだ!?いい香りだろ!?」
自信満々に聞いてくるが、生憎私は香水に全く興味がない。
「ええまぁ……でも香水使わないんで」
「使わないのか!」
そう言うと彼は、私がスペイン語より解せない英語で、早口に何かまくし立ててきた――
このオバマ、最近食堂でよく顔を合わせるようになった。
いつも親しく声をかけてくれるのはありがたいのだが、なぜか英語で話したがる。
そして彼の振ってくる話題の多くは、私にとって、あまりおもしろくない分野なのだ。
ある日は「スーモ」の話題だった。
やたら「日本のスーモスーモ」と言ってくるので、最初はzumoかと思った。スペイン語でジュースの意味である。ただし、ドミニカ共和国ではjugo(フーゴ)という単語でジュースを指す。
あからさまに、は?という顔を見せた私に、彼はスマホで“相撲”の動画を見せてきた。
相撲か……何も分からん……
とにかく「スーモ」ではなく「すもう」と発音するんだと教えてはみたが、最後まで彼はスーモと呼んだ。
あるいは女の話。
ある日オバマは私に、「結婚してるのか。彼女はいないのか」と挨拶代わりに聞いてきた。
いつも通り「独身ですし、彼女もいませんよ」と答える。
「この店の看板娘は今フリーだぞ」
耳寄り情報だろー、とニヤニヤ笑って教えてくれるが、「あぁそうなんですか」としか言えない。
ここまではいいのだ。よくある会話である。
ただ、ここから先は文字に起こすのも憚られるような、少なくともランチタイムに話すには強烈過ぎる下ネタをぶっこんできた。端的に言えば、完全なセクハラである。
どうも私はこの手の話が苦手で、愛想笑いも上手くできなかった。
(スペイン語が分からないのに、下ネタの内容はいつも手に取るように分かる自分が悲しい。)
――香水がドレッドの手に渡ると、2人は日本の車やバイクの話をし始めたようだが、会話のペースが速すぎて聞き取れずなかった。ただ、何度もバイクにまたがるジェスチャーをするドレッドを見る限り、彼はバイク好きらしい。
私はきれいに平らげた食器を返却し、看板娘からコーヒーを受け取った。この店は食後のコーヒーをサービスで提供してくれる。
席に戻るとオバマがいつになく真面目な顔で、私に「日本人が住んでいる」というようなことを言ってきた。
「え?アト・マジョールに日本人が住んでるんですか」
「違う。私が子どもの頃だ。彼はニワトリをいっぱい飼っていた」
向かいの席に座っていた恰幅の良い肉団子みたいなおじさんが補足する。
「首都に行ってしまった」
「その日本人は今も首都に住んでるんでしょうか」
「そうだな」
肉団子おじさんも子どもの頃の記憶らしい。今も首都にいるという情報は、推測に他ならないだろう。
3人は話題を変えて、お喋りを続けた。
私は彼らに礼を言い、店を出ることにした。
オバマは50代後半から60代前半に見える。日本人がアト・マジョールに住んでいたのは40~50年前――1970~1980年――ちょうど戦後ドミニカ共和国に渡った日本人が、最初の入植地である西部地域から新天地を探し、移動し始めた頃ではないか。
もちろん日系人とは限らないが、やはりオバマと肉団子さんの話にはある程度の信憑性がある。
そう言えば、この街の農薬屋さんに「SINOSATO」という店がある。店の中で日本人らしき人を見たことはないが、もしやその日本人と関係があるのだろうか。
彼は、アト・マジョールに初めて住んだ日本人かもしれない。
何とか探し出し、話を聞いてみたい――
半世紀前のアト・マジョールを見た日本人は、何を思い、ここに住むことに決めたのだろう。そしてなぜ、この街を離れたのだろう。
手がかりは少ないが、ここは大きな街ではないし、日系人のコミュニティもさほど大きくない。その気になれば見つけられるかもしれない。
まだ見ぬ日本人に思いを馳せると、冒険心みたいなものをかき立てられ、身体がむず痒くなった。
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