楽園―日系移民のこと―

 太陽が痛いほど照りつけた日曜日。
 JICA関係者を乗せたマイクロバスは、サント・ドミンゴのとある霊園で我々を降ろした。
 「おはようございます。Buenos días」
 日系人の方と会うときは、どちらの言葉で声をかければよいのだろうと考えてから、結局は日本語とスペイン語で続けて挨拶することが多い。
 『おはようございます』
 流暢な日本語が返ってきた。日系1世2世の方々らしい。
 日系人慰霊碑は想像していたよりもずっと立派なものだった。白壁の建造物で、碑と呼ぶには役不足、“慰霊館”といった趣だ。屋根の上には「慰霊碑」と漢字で記されている。
 クリスチャンの同期隊員によると、キリスト教、特にカトリックではお墓にお金をかけることが多いらしい。ドミニカ共和国にはカトリック信者が多く、実際この霊園内のお墓は十中八九、建物型の体裁をとっていた。
 しかし、慰霊碑の中に焼香台が設置されているのを見る限り、今日の慰霊祭は仏式で行うようだ。碑の隣には線香の準備をしているおじさんの姿も見えた。
 日系人の方々はじめ、在外公館の副大使夫妻、JICA事務所長ら参列者が、碑の前の仮設テント下に並べられた椅子に着席し、慰霊祭は始まった――

 日系人とは、19世紀後半から20世紀半ばにかけて諸外国に移住した日本人やその子孫のこと。移民を決めた世代を1世、その子ども世代を2世と呼ぶ。
 移民先として特に多かったのが中南米諸国で、ドミニカ共和国にも戦後多くの日本人が移住してきた。
 現在、ドミニカ共和国には約800人の日系人がいて、協力隊員はしばしば彼らと関わる機会がある。私自身も日系人主催の盆踊り大会やソフトボール大会に参加してきた。
 また、JICAには青年海外協力隊とは別に「日系社会ボランティア」という、その名の通り日系人を支援する取り組みがあり、この慰霊祭でも3名のボランティアが裏方として動いていた。
 協力隊員がドミニカ共和国を語る際、日系移民の存在は無視できないのだ。

 ――慰霊祭の司会は日系人のおじさんだった。
 彼はスペイン語で進行したが、日系人代表の挨拶は日本語、続く副大使の挨拶はスペイン語、JICA事務所長は日本語を使っていた。
 全編日本語に統一しないのは、もしかすると3世以下、つまりドミニカ共和国生まれの日系人への配慮かもしれない。
 3世、4世と世代を重ねるにつれて、スペイン語が“母国語”になっていく。首都には日系人の子どものための日本語学校があるくらいだ。そこに通う子どもたちの中には日本語をほとんど理解できない子もいると聞く。
 ただ、慰霊祭では日系人の若者の姿をあまり見なかったような気がする。今回はたまたま世代が偏ったのかもしれないが、言語以外のことだって、年月の流れに応じてドミニカ共和国に馴染んでいくのだ。ドミニカ共和国で生まれ育った若者にとっては、自らが日系人であるという自覚が強くないと――ちょうど戦没者遺族にとっての追悼式と同じように――慰霊祭に参加する意思も意義も薄れてしまうのかもしれない。
 そんなことを思うと、大きなお世話だが(そして杞憂であれば良いのだが)この慰霊祭はいつまで続けられるのだろうか、世代間の確執などないのだろうかと、考えてしまう。
 これから“も”大変なんかもなぁ……
 そもそも、彼らのたどってきた歴史が波乱万丈なのだ――

 ドミニカ共和国への移民が始まったのは1956年。そこから3年間で249家族1319人が海を渡った。
 これらの移民は、戦後の就職難を打開するための日本国政府による政策で、国はドミニカ共和国のことを「カリブの楽園」と謳い、移住者を募った。
 しかし、渡航先には楽園とは程遠い、厳しい現実が待ち受けていた。
 移民たちに支給された土地は当初約束された3割ほど。さらに土地を所有できるという話だったはずが、耕作権しか与えられなかった。しかも土地は岩石だらけ、土中には大量の塩分が含まれており、農業には不向きな環境だった。
 また、移住を推進していた当時のトルヒージョ大統領が暗殺されたことも災いし、1962年までに136家族628人が日本への帰国を余儀なくされ、残った人の多くも、ドミニカ共和国内に新天地を探すこととなった。
 2000年には日系移民176人が国を相手に25億円の損害賠償訴訟を起こすも、一審判決は時効を理由に請求棄却、移民側の敗訴となった。
 一方で、外務省による調査不足などが判決文内で指摘されたため、小泉元総理が謝罪、特別一時金として50万円から200万円が支払われた。
 最初の移住から謝罪までに50年、裁判の申し立てからだけでも6年もの歳月を要した。
 その間、日系人同士での軋轢も生じたと聞く。

 ――日系人代表の挨拶の中に印象的なフレーズがあった。
 今、故人のいる場所を、「不安のない楽園」と呼んだのだ。
 彼らはこの国で、楽園の光を見ることなく、亡くなっていったのだろうか……
 2年という限られた時間を、ドミニカ共和国のそこそこ恵まれた環境で、特に不安もなく過ごしている私には、想像もできなかった。
 今を生きる日系の若者はどうなのだろう。親や祖父母の人生をどこまで知っていて、その歴史を次の世代に伝えるつもりでいるのだろうか。そして……

 我々日本人に対してどんな感情を抱いているのだろう……

 日系人のことを、分かったつもりになっていた。
 しかし慰霊碑を前に、彼らの社会や人生に思いを馳せてみると、それは傲慢な勘違いだと気付いた。