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沖縄戦慰霊の日、75年の節目を迎えて。

私が沖縄に初めて行ったのが(家族旅行1回を除いて)戦後70年を迎えた夏だった。5年前になる。当時私は「戦争体験者の証言を聞く」ことしか考えていなくて、頭の中に「ひめゆり」「対馬丸」「集団自決」「基地問題」と単語を知っている程度か、子どもの時に観た絵本や本、映画の情報とイメージだけだった。
あれから5年、私は大学院に進んでいる。
証言できる体験者が1人もいなくなった時、「証言」だけが“そこに在る”のが嫌で、できるだけその人の人生の沢山の色を拾い、その中で戦争の色は彼女の人生の中でどう染まっていったのか、それをしっかりと遺したいと思った。語ってくれた人は「戦争体験者」ではなく、沖縄で90年生きた1人の人間だから。
それを言語化するために大学院で学ぶことにした。

修士論文では、「なぜ語り部になったのか?~ある沖縄の女性の生活史から」というテーマで書こうと思っている。

「かわいそう」でも「たくましい」でもない。それぞれの人生のなかの、わずかな、どうしようもない選択肢のなかから、必死で最善を選んでいる。-岸政彦―

私の担当教授の言葉。

ある沖縄戦を体験した女性の語りをまとめ、人生を振り返っていると、彼女は降りかかってくるどのような状況も一貫して「そのまま受け入れている(この言葉はまだ気に入っていいない、ほかに良い言葉を探している)」。それは当時の時代を生きる上でとても大切な生きる術だったのかもしれない。その受け入れた中で彼女は最善を選んで生きてきたことが語りの中で垣間見える。女性としてあの沖縄の社会を生きるために受け入れなければならなかった状況、そして90年生きてきた生活史を振り返っていくことによって、彼女が今「語り部」を行う理由が見えてくると考えている。

というように、まだまだ修士論文のテーマは考え中だけど、それと同時並行に、彼女の戦争体験、人生史、そして彼女の生きた土地の歴史をまとめ、いつか本が出せたらな~と思っている。島の今の社会の事も書けるようになったらいいな~。

でも私は戦争を体験していないし、ナイチャー(本土の人間)だ。私が文字を書くことはある種の暴力である。だから書くのが本当は怖い。最近、ある大学の教授が沖縄のことを書いた記事があり、あたかもこれが正しいかのように上から目線で「沖縄」をまとめていた。
あれは、暴力だ。文字を使った暴力だ。自分も一歩間違えるとそうなってしまうことが怖い。
70年の時よりも、75年目、そのことをずっと考えている。

ナイチャーとして言葉にすること、書くこと。

例えば沖縄の基地の問題も、「基地反対」「基地賛成」なんて簡単にいえない。基地を押し付けている側の人間であり、基地のある生活を知らないからだ。沖縄の人の「基地反対」「基地賛成」「基地容認」というその声すべてにはそれぞれが生きてきた時代や背景がある。どの立場の人の声も聞いてきたけど、私は○○です。と言えない。言ってはいけない気がする。もちろん、日本が沖縄に基地を作った歴史とそれを押し付けている構造にはNOと言いたい。それもナイチャーの私が言うと暴力になる気がして何も言えなくなる。だからと言って、そこで逃げて目を逸らしてしまうのが一番失礼で、ダサいから、私は私の言葉で、言語化したいと思っている。

戦後75年目の年、考えることが増えた。70年目のあの頃は、何も考えていなかったな~と振り返る。正直あの頃は「基地反対」が当たり前だと思っていたし、ウチナーンチュ/ナイチャーって言葉も知らなかったし、歴史なんて何も知らなかった。人の人生なんて考えていなかった。
だからこそこれからも考えることは辞めたくない。考え続けたい。
考えることを辞めてしまったら、誰かを知らない間に傷つけてしまうかもしれないから。

私は、人が好きで、おばあが好きで、沖縄が好きだ。その「好き」さえも暴力にならないように、考え続える。これからも沖縄で生きたいと思っているからこそ、私は考えて向き合い勉強し続けたい。もちろんめちゃくちゃしんどいけどな!!!!(笑)
何しとんねん、自分、って時々なるけどな。ボランティア大好き人間で国際協力とか言ってたのに、いつの間にか大学院に行って文字を書き始めてるんよな。
でも私の中で、国際協力とかボランティアをするよりも今の方がよっぽど人と真摯に向き合えてる、と思っている。だからしんどくてもやるんだろうな~。

そして今日は、沖縄戦で亡くなられたすべての人に祈りを捧げる。
今日は本当は何も考えず、ただただ、合掌する日にしたかったけど、書いちゃった。

#沖縄慰霊の日 #慰霊の日 #エッセイ
#散文

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