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他人の目を気にするから、目の前の幸せに気がつけない

心身を休めることができる家があって
温かいご飯が食べられて
自分の命を差し出してでも守りたい人がいて
その守りたい相手が生きていること。

その事実が、その幸せが目の前にあることを
名著「同志少女よ敵を撃て」が思い出させてくれた。

SNSサーフィンが生活の一部となっている時代。どことなく競争が繰り広げられ、自分の幸せの尺度が他人に委ねられている気がする。

タイムラインを開くたびに比較が始まる。
この子の方が可愛い。この子の方がキラキラした生活をしている。このまんまじゃだめだ。
無意識に可愛くなる方法を模索し始め、YouTubeや Instagramでメイクの方法や垢抜け方を検索する。それをSNS側が認識すると、自分自身が好みそうな動画や投稿を次々と表示させてくる。その状況は脳にとっては快感であるから、どんどんハマっていく。
こういう手のSNSは、商品のプロモーションが絡んでいることが多い。これを買えば、こんな風になりますよ!というような、モノによって幸せを得ることを煽る広告で溢れている。

お金を稼いで、モノを買って、映えるような生活をして、幸せになろう。そんな思想が世の中には蔓延しているように思う。幸せと映えはイコールなのだ。


私は、映えを追い求める限り、誰かと自分を比較しているのだから、真の幸せには辿り着けない気がする。ここで、映えるの定義を明確にしておきたい。私なりの解釈であるが、他人から承認される見た目を持つということが映えるといえる状況だろう。
例えば、100人がNGだと言い、自分がYESと言う状況が映えているとは言いにくいだろう。それは自己満足と形容されるのではないだろうか。



SNSは私たちに多大な利益をもたらしたことも事実。Instagramをしていなかったら、今や大ファンTWICEにも出会えてなかっただろうし。推し活が広まったのもきっとSNSの功績だろう。
ただ、多大な損失ももたらした。SNSの台頭により、自己満足で生きる人が減っている気がするのだ。人間、自己満足でいいのに(仕事はいかんと思うが)、プライベートにまで他人の目が及んでいる。

他人の目を気にするから、目の前の幸せに気がつけない。温かいご飯、くつろげるソファー、温かいお風呂。目を向けるべきは、他人ではなく目の前にある環境なのではないだろうか。

自分の幸せを自分でしっかり握りしめる。勝手に満足する。その力強さが今の時代を生き抜く鍵なのかもしれない。

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