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日記#44生きるという事

昨年の秋、主人の事を

悩みながら投稿した。

沢山の方が読んで下さったり、コメントを書き留めて下さったり、マガジン追加や紹介をして下さっている。

本当にありがとうございます。

自分にとって沢山の方が『スキ』としてくれている事はとても有り難く嬉しい事で、そっと背中をさすってもらっている様な感じがしている。

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)(死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態)

全てを綴る事はまだまだ出来ないと思うけれど、その頃の事などを少し記事にしてみようと思う。



主人が事故にあったのは、今から約20年前になる。

4人中2人が亡くなり奇跡的に生存していた主人。

私は事故現場から運ばれた現地の入院先へ何度も足を運ぶ。子供達が一緒の時もあったし、私だけの時もあった。

息子や娘は幼稚園に通っていた。事故の起きたその当時、幼稚園が冬休み中だったので、元気だった母が面倒をみてくれた。

奇跡的に生存していた主人…

主人は骨折をしていたけれど、ギブスなど出来ない?…必要の無い部位?状態だったようだ。もちろんその部位の違和感はその後ずっと続いているようだが。

命があっただけでも不思議なのに。



暫く安静と指示が医師から出ていたが、特に手術の必要性も無く体調が落ち着くとすぐにリハビリに取り掛かかる。

まずは車椅子、次には松葉杖。使えるようになるのに時間はかからなかった。

思ったより早く退院が決まり、知人の車で家に帰宅する事になった。


病院の宣伝の為なのか…病院側が積極的に報道に協力。

事故発覚からずっと、事故の詳細から主人の入院中の様子など報道されており、新聞にも毎日の様に記事が書かれていた。

退院時にはまるで芸能人の様にフラッシュをたかれ晒し者になってしまった。



本人は亡くなった方々の事を思うだけで気が狂いそうになる精神状態だったのに。

辛かったと思う。

なので現在も主人は世の中の報道のあり方に、つい口から厳しい言葉が出る。



そして事故の事はご近所、幼稚園の先生、園児の保護者皆がニュースで知っていた。

会う方々皆が「大変だったね」と私に声をかけてくれたが、まだまだその時はぐちゃぐちゃな感情しかなくて。

その気持ちに蓋をして

"今はもう大丈夫です"    

"心配して下さってありがとうございます"

などと平静を保っている様に対応しなければならない状況があって。

私にとっても辛い数ヵ月だった。

被害妄想かもしれないけれど、何となく好奇な目で見られているようで、いつもそこから逃げ出したくなっていた。



主人が自宅に戻ってからは、近くの整形外科クリニックにリハビリに通う事になった。

入院中はこれでもかと無理してでも動け動けとスパルタリハビリだった様でかなり痛く疲れたと云っていた。

新しく通い始めた、その整形外科の痛くない整体はとても身体にも精神にも合っていて改善するまで通うはずだったのだが、ある日突然行くのを止めてしまった。

確か担当であったリハビリの先生が不運な事に、ご自身の怪我で出勤出来なくなり別の先生に交代したのだが…その新しい先生と気が合わなかったらしい。

事故の事をまた説明しなければならないと思う事も足が遠のいた原因のようだった。

この頃からPTSDの症状が強く出始めた様な気がする。

リハビリに行かなくなってからは、自分の部屋に閉じ籠る様になったり。

怒りに任せて怒鳴ったり。

自分でもコントロール出来ない精神、日常。

本人にしかわからない感情。

私には、主人が生きている事が辛すぎて自分で命を消してしまうのではないかと思え、心配でしょうがなかった。

そんな主人の様子に子供達は怯え、はしゃぐことが出来なくなったり、自分の気持ちを押し殺す様になってしまっていた。


少しでも改善するのなら、どうにかして主人を私を子供達を助けて欲しかった。



このままではいけないと、主人は自分に合いそうな心療内科を見つけ、通う事になった。

診療後にカウンセラーの女性と1対1の静かな時間。

事故に合ってしまった思い出す事が辛いその瞬間の事実確認から、今の主人自身が感じている気持ちまでを、細かく拾い集め

「あなたは間違っていない」

「あなたは悪くない」

といつも云って貰っていたようだ。


事故が起きたのは自分が何か悪かったのではないか…

自分が他に何か出来ていれば他の人が亡くならずに済んだのではないか…

自分が死んでしまっていたほうが良かったのではないか…

その頃日増しに考えるようになり自己否定がかなり強かったのだと思う。

それは自分が生きている事自体を否定する事になるし、生きている事が辛くなっていたのかもしれない。

カウンセリングに通う様になって少しずつ改善しているような気がしていた。


が、その時だけだった。

事故後退院しカウンセリングにも通い始めた頃、会社の上司との面談を自宅近くの店で、と決めて主人と私と会社の上司とで合流したのだが。

主人は挨拶はしたものの顔を上げることが出来なくなり、手や身体をブルブルと震わせ真っ青になっていった。

そこには今にも倒れそうな主人がいた。

話どころではなく、すぐに帰宅した事を覚えている。

後に会社からは、今後働けるならばどの部署でも受け入れるからと有難い提案も頂いた。しかし本人の辛い状態は変わらず、仕事は辞める事になる。


何もかもが辛く、苦しい。

そんな毎日を過ごしていたが、会社を辞めたという安堵感もあったのか少しずつ少しずつ落ち着いてくる。

カウンセリングにも通わずに過ごせるようになってきていた。

しかし、突然襲ってくるフラッシュバック。落ち着きと落ち込みを繰り返しながら1日1日と過ぎてゆく。

夜暗くなると不安になっていた。

季節は冬だったので寒くなる事も恐怖となる。

"記念日症候群"

聞いた事のある方もおられるだろう。

ストレスの掛かる特定の日の前後、物凄く体調を崩すのだ。

本人に聞くと、当時の大変だったあれこれは、うっすらとしか記憶に残っていないらしい。


20年たった今、少しだけそれらの苦しみも和らいだ様だ。


しかしやっばりまだ。

主人は時が止まったままだと云う。


情緒不安定に成るのも、今は時々…1年に数える程度だが。

主人は急に苛立ち私にも冷たい反応をする。

私が良いと思って言ったり行動した些細な事に腹を立て、食事を食べないとシャットアウトしたり。

そんな時の私は辛く、喉の奥がギュッと痛くなり言葉が出なくなってしまう。

嵐が過ぎ去るのを待つようにじっと待つ。

それまでの怒りが嘘のように無くなり穏やかな彼に戻るまでじっと待つ。

ひと昔は頻繁に嵐がきていたので、話す言葉ひとつひとつに気を遣っていた。

それが随分無くなってきてはいるがやはり気を遣う。

それが必要なくなる事は無いだろう。

本人の持って生まれた性質もあるはずだから。


それでも主人も私も少しずつ少しずつ笑えるようにもなってきている。


生きるという事を考える。

人によって違うだろう。


私にとって生きるという事は、日々修行ではないかと思ってしまう。色々な経験をする事で人として成長するのではないのかと。


主人が時々聞いてくる。

生まれ変わってもまた一緒になってくれるかな?

私は…

一緒になりたい気持ちも有るけれど…



もう少しだけ楽な人生を次は送りたいなぁと答えてしまった。




先の事は全く分からないが、なによりも今日も無事に家族皆が生きている事に感謝したいと思う。





読んで下さってありがとうございます

今日も明日も良いことがありますように(ペンタス)