日本語教師エッセイ、最低の自分と最高の自分。
もし、時間を巻き戻せるとしたらいつに戻りたいですか。
何歳の自分からやり直したいですか。
と、聞かれたら20歳と応えたい。でももう一人の自分が言う。何度やり直しても同じ選択をしたんじゃないか・・。私は15歳まで神童だったように思う。シンガポールで生まれ日本に戻り自然に囲まれ育った。小学4年生まで水泳を習い、地区大会では優勝した。勿論、自分が練習を頑張ったのもある。コーチに恵まれた事もある。足の怪我で水に入れなくなった事がきっかけで水泳を止めた。苦しかった練習の日々から解放されそれがバネになり小学校残り2年間、遊び倒した。毎週末になると友達が私の家に集まり、テレビゲームをしたり、近所の公園で野球をしたり、部屋で漫画を読んだり、母親が作ったたこ焼きを食べたりした。これが2年間続いた。そして中学入学。
環境の変化、思春期など同じメンバーにも拘らず、友達たちは一変した。異性を意識する友達、勉強に専念する友達、クラブ活動・・。つい最近まで小学生だった私達が中学に入るだけでこんなにも変わるなんておかしい‼しかしながらその変化に自分自身も対応しようと勉学に励んだ。これまでパッとしなかった人が勉強出来るだけで目立ち始めたからだ。クラブはソフトテニス部。中学3年間でクラブでは地区大会2位。県大会3位。勉強の方は学年トップ。陰で努力した。テスト勉強は深夜3時まで頑張った日もある。歯車が自分中心に動いていた。友達にも恵まれた。そして高校進学。
1つだけ若い頃の自分に足りなかったものがある。気が付けなかったと言ってもいい。
感謝の心、1番大切なものが抜け落ちていた。
自分は何でも出来る。自分は強い。でも、何かおかしい。こう思っても手遅れだった。学生時代、何不自由なく育ち、天狗になっていた。有頂天。周りの支えには気が付かなかった。
01年3月大学卒業。超就職氷河期に巻き込まれた。そこから20年、転職活動を繰り返す。34歳で日本語教育に出合う前まで統合失調症の精神疾患を患う。
最低の自分、それは感謝を知らず、世間も知らない時のことを指す。
2012年頃、地元の新聞に「日本語教室が盛況」とあり、週末、隣町の市民センターで行われる日本語教室に3年程通った。37歳の時に日本語教師420時間養成講座修了後、日本語学校に入り転身した。それまではパッとしないサラリーマン。同時に結婚もした。日本語学校での3年半は下積み期間だったと思う。朝4時に起きて教案を作成したり準備に充てた。外国人留学生と触れ合い、ちょっとずつ、ちょっとずつ開花していった。
自分では42歳で芽が出たと思っている超遅咲き。周りへの感謝も覚えていった。
もし、20歳の頃の自分が感謝の心を持っていたらどうなっただろう。違う道があったのではないか・・。振り返ればそう思うが、時代はリーマンショック、長引く不況、自殺大国日本など暗く失われた30年と言われていた。覚悟も無かった。1つだけ学んだことがある。
自分を(必要以上に)責めない。
自己肯定感という言葉も近年出てきたが、それが著しく低かった頃、Twitterを始める。2018年は「Twitter日本語教育元年」と言われるくらい多くの日本語教師と繋がり交流。次第に、自己肯定感も上がっていく。もう1つだけ強く思った事、それは、
死ぬまで周りへの感謝を忘れない。
自己肯定感もマックス、44歳、働き盛り、目の前に海外で日本語教師をするチャンスがある2023年現在、感謝を覚えた今が最高の自分だと思う。
やり直せたら?20歳の自分が周りへの感謝を知っていたら?
まだ悩みはある。又社会の一員に戻れるか・・。日本社会の・・。専門学校を退職。海外での仕事は今週決断となりそう。20年30年先を思った時、ずっと海外で・・はまだ分からない。日本に高齢の両親を残して自分だけ海外という選択肢は無い。
側にTwitterがある。
フォロワーは少ないが、強い繋がりを感じる。2018年からの5年間で築いたものだ。世界の何処にいても‼ もっと気軽に海外で働けたらいい。日本語教師で良かった!とこれから先もそう言えるように悔いのない決断をしたい。自分のキャリア形成で海外で日本語教師は外せないから。
悔しい思いもある。お前は中学までだな・・そう同級生に言われたことがあった。見返したい。子供の頃は神童でも社会に出たら普通の人。悔しい。この悔しさが原動力だ。
コツコツ頑張ろう。感謝を忘れず‼
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