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浴衣 砂利道 虫の声

浴衣2枚が手術の時と術後に必要だと言われ、慌てて探しに行った。

もう9月で、時期はずれだったし、 小さな子供の寝巻用の浴衣なんていっても、なかなか見つかるものじゃない。店員さんに用途を説明するのも気後れしてしまい、数件回って古い商店街の雑然とした子ども服の店の棚の奥から、やっと見つけ出してそれを買った。その子に似合う色とか、可愛い柄を選ぶとか、そういう楽しみもなかった。

2枚の内1枚を着て手術に向い、後の1枚を着ないまま、その子は旅立った。生後間もなくから決められていた心臓の手術だった。すれば良くなると信じて疑わなかった手術だった。けれども、予定外の内部の出血で、終わるはずの時間にも手術室から出てこない。子供をひたすら待った。待つ間に義母に薦められて一口だけ食べた夕食はおそらく一生のうちで一番味の無いきつねうどんだったと思う。
片方の肺はもう、使えそうもない状態になり、出血を止めたり血栓を溶かしたり、色々なことを試みた1か月、その間に小さな身体は確実に弱っていった。
残った1枚の新品の浴衣を、あげると言われても却って困るかなと思ったが、病室仲間のTちゃんのお母さんは受け取ってくれた。
遠いところから泊りがけでTちゃんの所に来ている若いお母さんだった。

もうすっかり遠い記憶で、色んな事があやふやだ。だけど時折思い出すのは、夏から秋へ季節が変わる頃、毎日歩いた土手ぞいの歩道、公園を抜ける砂利の道。夏草の匂い、蝉の声、突き抜ける青い空、入道雲。
少しずつ変わる空、うろこ雲、つくつくぼうしの声がいつしか消え、秋の花がちらほら咲く草むらから、虫の声が聞こえ出したこと。青い空に高く高く昇っていく、誰かの手を離れた風船や、台風の低い黒い雲の隙間から光がさし、小さな虹のかけらが見えたこと。
見るもの聞くもの、どんな些細なことも、今の自分に繋げて、喜んだり悲しんだりしたこと。
きっと歳をとっても、この季節が来たら必ず思い出すんだろうな、と思うのだ。

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