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OUR HOUSE

文藝MAGAZINE文戯13 2021 Winter 掲載作品です。
創作後のnoteでのつぶやきは こちら

◆OUR HOUSE ◆


── 何が間違いだったのか

 転勤先で、二人だけの新しい暮らしが始まった頃は楽しかった。 地方都市らしい小ぢんまりした町並みも親しみやすい感じがするし、耳慣れない土地の言葉さえ、新婚生活のスタートにはふさわしく新鮮に思えた。 新しくはないけれど清潔な社宅の部屋。くるくると家事をこなし、やりくりを一生懸命している柚子の様子は、何だかままごとみたいで、それがまた、かわいく思えた。 仕事が忙しい僕に代わって、様々な手続きを柚子は一人でこなし、家具や雑貨を決めるのにも沢山店を回って スマホに写真を送って来た。

「これにするよ、いい?」

彼女のセンスに何ら問題は感じない。長々と返信するまでもない、と思っていた。仕事中なのもあり、笑顔のスタンプだけ返した。

 柚子の好みのインテリアが少しずつ揃い、テーブルには可憐な花がいつもあった。 そして何よりも 出迎えてくれる柚子の笑顔が嬉しかった。 柚子は社宅の付き合いにもすんなり溶け込んだようで、 帰宅するといつも、リサイクルテクニックだの、美味しいクッキーの焼き方だの裏ワザ収納方だの、今日聞いた話題をひとしきり聞かされた。 女っていいよな、こんな他愛のない話や噂話で仲間が出来、土地に馴染んでいく。 柚子の話を心地よく聞き流しながら、僕はネクタイを緩める。

柚子の母は随分心配性なようで、頻繁に電話してくるし、家庭菜園でできた無農薬野菜や果物、切れる頃を見計らって米を送ってくる。柚子はどんな時間の電話でも楽しそうに日々の様子を話し、何の心配も要らないことをアピールしてくれる。幸せだよ、仲良くやっているよ、と。

──どこで何が間違ったのか。

「ユキくん、最近帰り、おそいね」
「ユキくん 週末もお休み取れないの?」
顔を見るたび柚子が言うのはそんなことばかり。だんだん責め立てられている気になってくる。
食料品と言わず生活用品のストックが増えだしたのはそんな頃だ。

最初こそ 義母から送って来る食料品やあれこれが 度を越しているのだと思っていた。断れなくて柚子も内心困っているのだろう。
でも 本当のところは全然 違っていたのだ。

柚子の様子がおかしいと気づいた頃には,安売りのトイレットペーパーが棚から溢れ出し、冷蔵庫には卵のパックがいくつも並び、野菜室には押しつぶされたトマトが汁を垂らし、 終いには冷蔵庫を開けるとなんとも言えない腐臭さえした。

呑気に楽しく過ごしているように見えていたのに、新しい土地で過ごす時間は長く感じられて、寂しいのだろう。 社宅のつきあいだってそれなりに気疲れするのかもしれない。きっと、やりくり上手を自負する奥さんの話を聞き流すこともできないで、こんなことになったのだ。そんな風にも思ってみる。
柚子が、買い込んだものをぼんやりした顔のままで冷蔵庫やクローゼットに押し込む様子を横目で見ながら、テレビの音量を大きくし、ぱたりと横になる。

──まさか構って欲しくてこんなことしてるの? 新しい仕事や環境の中、今は周囲に無理してでも合わせていかなくちゃいけない。
僕は疲れていて、ただ平和に眠りたかった。
──慣れたら上手に休暇も取る。一緒に散歩したりショッピングしたりもできる。だけど ちょっとだけ待ってほしいんだ。

職場に行っている方は もっと大変な思いをしてるんだ。 寂しいとか言ったって、好きに時間を過ごせる柚子の方が一日どれだけ楽なことか、そんな風に柚子を責める気持ちにさえなる。 考えていると眼がさえて眠れなくなり、うっすら明けていく光の中で僕は、冷蔵庫や押入れに溢れた安売り商品に向けた、苛立ちを抑えきれなくなっていた。

先に起き出して冷蔵庫を開けた。目についた傷んだ野菜をゴミ箱に投げ捨て、極力穏やかにと心掛けながら、まだ眠たそうな柚子に言う。
「古いものは捨てて、冷蔵庫、整理しなよ、ゆっくりでいいからさ」

『時間はあるんだろ?』という言葉を呑み込んで 不眠と不機嫌さを隠すために 僕は目を合わせなように言う。柚子は何故叱られているのか解らない子供みたいに、幼い仕草で小首をかしげ、こちらをじっと見つめ続けていた。

*
──今日こそ絶対片付ける、そしてきっちり柚子と話すんだ。
遅くなった帰り道、毎日 今日こそはと決意する。
蹴散らされた枯葉が くるくると風に舞う様を見ながら僕は心に決める。足元に転がってきた枯葉を一つ踏みつけると、サクリと乾いた音を立て簡単に粉々になった。

家に帰ってまず、冷蔵庫の整理を始めた。しなびた野菜をポリ袋に次々放り込み、卵や牛乳を全部テーブルに並べた。 冷凍室の引き出しはぎゅうぎゅうに詰め込まれていて開けるのすら苦労した。

「柚子、こんな買い方って、変だと思わない?自分で解ってる?」
柚子は小動物の様な黒目がちの瞳で、僕をただ見つめている。感情が読めない。 柚子の返事を待った。
恐ろしく長く感じた沈黙の後、柚子はテーブルの卵の意味が「今、解った」とでもいうように にこりと笑い、 卵のパックをひとつ引き寄せてのろのろとした口調で言ったのだ。

「ユキくん晩御飯 卵がいいの?」
「飯は食ってきた」
「ユキくん卵料理、好きだものね」
「もう 晩飯は食ってきたんだ。連絡しなくて悪かったけど」
「ユキくん 何がいい?オムレツにしようか?」
「消費期限切れてるんだよ、気づいてないわけじゃないだろ?」
「何がいいかな。すぐ作るから。何にしようかな」
間の抜けた台詞を言いながら柚子はパックを開けて卵を取り出す。
「連絡しなくって怒ってるの?晩御飯食べる時間に帰れないんだ。残業続きだって 前にも言って……」

カツン。
「そんなんじゃない」
言葉と同時に、柚子は手にした卵をテーブルに打ち付けた。 殻が割れ、中身がどろりと出て滴る。 柚子は崩れた黄身と流れ出る白身をじっと見つめている。
「そんなんじゃない」
汚れたテーブルをそのままにして柚子は二個目を手にする。
「そんなんじゃないよ」
卵を掴んだ手が振り上げられ、柚子の目が異様に見開いた。よせ、投げるな!
「よせ、よせったら、怒るぞ柚子!」
一瞬固まった身体から、さっきの突き上がるような力が急に抜け、柚子は何故か驚いたような表情をした。振り上げた手が所在なさそうにゆるゆると下され、今度は酷く傷ついたような目をして僕を見る。二個目の卵が床に落ちぐしゃりと割れ、柚子は自分も卵液の散らかった床に崩れ落ちた。
「……」
「柚子?」
「……」
「柚子!」
ぺたりと床に座って、長い間俯いたままの柚子におそるおそる近づいてみる。 泣いているのかと思ったら 柚子は驚くべき早業で眠っていた。 嫌な汗が一瞬で引き、どっと疲れが出た。

次の朝。朝食の匂いで目を覚ました。部屋は昨日の惨状の名残はあるものの、かなり片付いている。
すっきりした顔の柚子に心底ほっとした。 向き合って食卓に着く。きれいに焼けた目玉焼きは平和な朝の象徴。 消費期限が切れてたって構うものか。

「いっただきまーす」
明るい声で言い、柚子に微笑みかけた。けれどほっとしたのもつかの間。
何を考えているのか柚子はぼんやりと皿を眺め、やっと動いたかと思うと、握り込んだフォークで目玉焼きをぐさぐさとつつき始めたのだ。何度も何度も。

「何してんだよ。普通に食べなよ」
「……」
「美味しいよ。傷んでないよ。大丈夫だよ」
「……」
「すねてるの?頼むよ、こんなのいい加減にやめようよ」
色あせてきた花がいつまでも飾ってあるテーブルをドンと叩く。 弾かれたように顔を上げ、まじまじとこちらを見、柚子はフォークをぽろりと取り落とした。 下手な芝居みたいに。

「ユキくんは私のこと、解ってない」
「そんなことないよ、誤解だよ。僕も柚子もちょっと疲れてるんだよ。今度こそ週末は休み取るからさ、一緒にゆっくり過ごして色々話そう。な?」
「ユキくんは私のこと、解ってないよ」
「いや、昨日はたださ、ちょっと同じもの買いすぎなんじゃないかって、それだけ……」
「ユキくんは私のこと……」

もはや会話にはならない。僕は朝食を喉に流し込んで逃げるように家を出た。


出社はしたものの、仕事もずっと手に付かなかった。柚子は明らかにおかしい。 即刻病院に連れて行った方がいいと焦る気持ちになり、心配しなくてもすぐに何もかも元通りになるかもしれないなんて、勝手な希望が打ち消しに入る。早く帰ろう、とにかく早く。その気持ちに反して足は重たい。
不安と焦り。淡い期待、身勝手な希望。 考えが纏まらないうちに、家のドアが目の前にある。

「お帰り、ユキくん」
ドアを開けると拍子抜けするほど明るい笑顔の柚子が立っていた。顔色もいい。それだけで安堵する。
片付いた部屋。穏やかな時間がこんなにも有難いものか。 お腹は空いてなかったけれど、柚子が用意した夕食のおかずをビールのアテにして食べた。 傍で柚子はにこにこ笑っている。
──良かった、以前の柚子だ。
経理課に行くといつも笑顔で接してくれた。疲れた顔をしていると冗談言って笑わせてくれた。 そんな懐かしい恋愛時代を思い返し、くすりと笑う。涙が出そうだった。

「いいことでもあったの?柚子」
「うん。後で、ね」
「もったいぶって、何?聞かせてよ、どうしたの?」
柚子はにっこり笑って椅子を立ち、サイドボードから丸いテニスボールくらいの玉を持ってきて テーブルにさも大切そうに載せた。 透明の玉は、中に小さな結晶のようなものが入っていて、部屋の照明を反射してきらきらと輝いた。

「何?どうしたの、これ?」
ちょっとつつくと外側はゴムのような質感だ。巨大なスーパーボール?
「頂いたの」
そうか、いい友達と楽しい時間を過ごして きっと気分転換できたんだ。すっかり楽天的になった僕は 詳しく聞くこともなく勝手にそんな解釈をする。

「ユキくん、信じる?これね、凄いんだよ。」
「何が?」
「毎日話しかけて優しくしてやると、中の結晶がだんだん育って、もっと綺麗に輝くんだって。」
「……?」
「うんと育って美しく輝く時、ユキくんと私の赤ちゃんがいい子で生まれてくるんだよ」
「赤ちゃんって……僕らはまだ……」
あと数年は作らないで二人で過ごそうって言ってたじゃないか。

僕は言葉を飲み込んだ。「愛の結晶」だとか古臭い言葉を引っ掛けてからかわれているんだよな?これって 冗談でしょ?
「柚子ってば……」
苦いものを感じながらも、ここはあえて笑い飛ばそうとしたのに、柚子は大真面目な顔で僕の言葉を遮り続きを言った。
「買い物に行こうとしたらね、男の人が、道を聞いて来たの。私も詳しくないからって 一緒に家に帰って地図で探してあげた」
「わざわざ、連れて、帰って?」
「うん、喉が渇いたって仰るし」
「何、それ?新手の詐欺とかさ、訪問販売とかじゃないの?」
「ううん、何にも売りに来たわけじゃないよ。ただ、」
「ただ?」
「言葉が懐かしくって」
──ああ、言葉が。
何となく納得した。だけど、
「無用心にも程があるよ。危ない目に合わなかったから良かったものの。親切にも程度ってものがあるだろう、そんな訳の解らない玉、くれるヤツなんて大体」
「家に入れたわけじゃないのよ。その人も玄関先で結構ですって」
「あたりまえだよ。あれだけ玄関ドア開ける時も注意しろって普段でも……」
「だってお年寄りなのよ。結局、少し先の老人ホームまで案内してあげたの」
「なんだ、迷子のお年寄り?」
「私の手を握ってね、ありがとうって何度も何度も言って、これをくれたの。 とても大切なものなんだけど、貴方に差し上げますって」

柚子の話を聞いていると だんだん喜んでいいものかどうか危うくなってきた。

「断ったのよ。そんな大事なもの頂けませんって。でも、ぜひ貴方にって仰って」
柚子は生まれたての仔猫でも抱くようにその玉を抱え込み 愛しそうにほお擦りした。
「柚子?」
「あなたにいいことがありますようにって、大切にした分だけ、この玉も愛情を返してくれますよって」
柚子はぺったりと床に座り込むと 膝にのせた玉を撫ぜながら、語りかけている。 優しく、この上なく幸せそうに。

 「玉」の効果か、柚子の精神状態はそれからとても安定していた。 不安を口にすることもないし、なにより表情が穏やかで微笑みが絶えない。 買い物の仕方なんか気にしてもしょうがない。部屋が多少散らかっていても構わない、そう思うようになっていた。
それでも以前より柚子のところに帰る時 気が重い。 不審な巨大スーパーボールを毎日撫で続け、中の結晶に語りかける柚子は、十分異様に思えた。

「子供が欲しいの?柚子。それならそうとちゃんと話して」
声を掛けると 柚子は穏やかに微笑んで言う。
「急いでなんかないよ。前その話は二人で決めたじゃない」
「じゃあ、何で」
「だって、思いがけず、って事もあるじゃない。その時に予定外って慌てるなんて可愛そうじゃない? それよりも、ずっと待ってたよ、って言ってあげたいもの」
頭がズキズキした。 どちらにせよ、こんな精神状態の柚子に赤ん坊が出来るなんて、それこそ不安だ。 その上柚子はこの頃 子供みたいに早寝だし、熟睡したら声を掛けたって起きやしない。

その日帰ったら 柚子は真っ暗な部屋で床に座り込んで玉を撫ぜていた。一日中そうしていたのだろうか、朝食の時のテーブルがそのままになっていた。
「ほら見て、結晶。前よりキラキラして綺麗になったでしょ。少し大きくなったかも。最近はあちらからも何か囁きが聞こえてくるんだよ」

 もう、一人では対処しきれない。
縋る気持ちで電話をかけ柚子の様子を話すと、遠いにも関わらず、義母はすぐにやって来た。
怒られても当然だ。覚悟はしていた。 ほんの数ヶ月前、あんなに幸せにしますと言い切って結婚式を挙げたのだ。 ずっと傍にいて欲しいという義父母と涙ながらの別れをして転勤先の土地にやってきたのだ。

 義母は僕を責めはしなかった。そして、深いため息をついた後、意外な事を言ったのだ。
「小さいときから引っ込み思案で、酷い人見知りする子なので心配してたんです。転勤先の社宅暮らしなんて」
「柚子が引っ込み思案で人見知り?」
誰の話だ?僕がきょとんとしているのを見、柚子の母はまた、ため息をつく。 こちらを見ていた柚子が慌てて目を逸らした。

「人付き合いが苦手で、辛いことをひとりで抱え込む子なの。正直親としてどうしてやれば良かったのか、ずっと悩んでいました。 やっぱり あの子、貴方に何も話してないのね」
少し離れたところで座っている柚子の様子を気遣いながら、義母は柚子の学生時代の辛い思い出を僕に話してくれた。友だちだと思っていた相手に裏切られたこと、独りぼっちで引きこもった時期。言葉を失い、笑うことすら忘れた日々。

僕が会社で出会った頃の柚子は、そんなそぶりもなかった。 いつも笑顔の世話焼き柚子。愛想のいい、控えめだけど人当たりのいい女の子。 自慢の彼女、と同僚にも紹介し、友達カップルと一緒によく遊びにも行った。 人付き合いが苦手だなんて 一言も柚子は言わなかった。
──無理してたの?いつも柚子はあんなに朗らかだったのに?

あの子は「そういう人」でありたかったんです。特に貴方の前ではね。そしてそれが幸せだった。嬉しかった。それがあの子の様子を見ていて伝わった。だから貴方を責められない。
僕を慰めるように、義母は言った。
「無理して欲しかったわけじゃないんだ。 柚子が新しい場所に馴染むのや 他人と付き合うのがそんなに苦手だってこと知ってたら」
義母を交えて、ちゃんと向き合って話そうとしたが、柚子はずっと黙って例の玉を撫でている。 たまりかねた義母が「玉」を柚子の手から取り上げて言った。
「しっかりしなさい、柚子。ただのゴムの玉よ。まさか信じてるわけじゃないわよね?」
「つらい時は愚痴言っていいって言ったでしょ?こんなおかしな事になってしまうなんて」
義母は柚子を抱きしめて泣く。
「一緒に帰ろう、ね、柚子。少し母さんと父さんのところで休むといいわ。今必要なのはどうする事か、ゆっくり考えて答えを出すといい。 それくらい、幸弘さんも待ってくれるわよね?」
義母の腕の中で、柚子は小さな人形のように見えた。危うくて儚い小さな存在。 柚子の唇が細かく震え、綺麗な透明の涙のしずくがポロリ、頬を伝って落ちた。

次の朝、柚子は黙々と冷蔵庫の中を自分で仕分けし、処分した。 以前からすれば片付いていると思っていた冷蔵庫にも、まだまだ捨てるべきものが沢山あった。しなび切った大根、ぱさぱさになったきのこ類。 冷やす必要もない缶詰の類。消費期限の切れたもろもろの食品。そして、うな垂れたまま義母に支えられるようにしてこの家を出て、元の居場所に戻って行ったのだった。僕に ひとことも言葉を残さずに。


柚子がいないだけで、部屋がからっぽになったような気がする。 柚子のことで落ち着かず、仕事さえ手につかなくなったとまで思っていたのに、今は何のために明日から仕事をしたらいいのか解らない。 脱力感、喪失感、言いようも無い居心地の悪さ。 窓の外の風景が色を失い、やっと馴染んだはずの家の中もよそよそしく冷たい。
ぼんやり立ち尽くす僕の足元で何かがコロンと転がった。 見下ろすとそれは例の「玉」。

透明の球体を、拾い上げて手の平に乗せる。 昨日柚子が撫ぜていた時よりも、中の結晶は何故だかずっと小さく輝き失って見える。 玉の中から、柚子のか細い声が聞こえる気がする。玉の中にひっそり閉じ込もって、触れられそうで触れられない、それはまるで柚子の心みたいだ。ゆっくり撫ぜると、結晶が一瞬、鈍く淡く、光ったように思えた。

柚子が選んだ壁の時計を見上げ、柚子の気配の消えた玄関ドアを振り返る。 秒針がカチリと動いた。僕は上着を引っつかむと車のキーを取った。靴を履くのももどかしく、もう一方の手で玄関ドアの鍵を閉め、階段を駆け下りる。 まだ、間に合うだろうか。 柚子に僕の言葉は届くだろうか。

ごめん柚子、気がつくことができなくて。ほんとの柚子が見えてなかった自分が情けない。 ごめん、柚子。もう一度柚子と向き合いたい。
間に合わなきゃいけない。 僕は 僕自身の至らなさに目を背けて何をしていたんだろう。僕は能天気で鈍感でどうしようもない馬鹿だ。

手から滑り落ちた「玉」は、そのまま転がり、開けた玄関ドアを抜け、駆け下りる僕と一緒にトントンと階段を跳ねながら落ちた。 そして階段の一番下で、一回大きく弾み、どこかに消えた。

──信じるかな、柚子。 最後に見た瞬間、玉の中のあの結晶は、温かな色の美しい光を放っていたんだよ。


       了


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