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「私の立浪論~マネジメントの視点から」&「私のマーチン論」

本日、10月3日(火)は、今季の中日ドラゴンズのラストゲームですか。

そこで、客観的なデータに基づく、

「私の立浪論~マネジメントの視点から」

というのを作成してみました。

個人的な好き嫌いは別に置いといて、ご笑覧いただければ幸いです。


長年のファンからの評価は最悪に近い(落合博満氏の監督再登板を願う声も)ものの、経営陣からは、立浪監督のマネジメント能力は高く評価されているものと思われます。

まずは、観客動員数が久し振りに200万人超えで、増収に貢献していますね。

理由は、勝ち負けに関係なく若手を積極的に起用していることが、特に若い入場者の共感を得ているのだとか。

最初は、この話をニュースで聞いた時には、にわかには信じられませんでした。こんなに弱いドラゴンズを見るのは初めてでしたし、特に、ホームではだいたい勝ち越していたのに、今季は、ホームゲームでも大きく負け越しているのですから。

ファンからは、目先の勝ち負けに関係なく、将来性を重視した采配を振るってほしいといわれている割には、彼の采配=勝つための短期的な戦術に対して批判されている訳ですが^^;(笑)

一方、今季、球場にやって来た人たちの多くは、若手が球場狭しと躍動しているのを観るのが楽しいとのことで、それはたぶん、自身が感じていた世の中の現状の閉塞感みたいなものを払拭したい想いを、選手たちの活躍振りに代弁または仮託してもらうためにバンテリンドームにやって来るのかもしれませんね。

一方、今季限りで引退してもらう選手たちに対して、遂に“引導”を渡せたことも評価されているようですが、元々、過去のいろんな事情でドラフト上位で採用してきて、ある程度優遇したり戦力外通告を躊躇せざるを得なかったが、結局は、残念ながら結果を十分に出すことができなかった人たち=“負の遺産”に対しても“踏ん切り”を付けさせることに成功するとともに、これからは新たなOBになり得る人材として、OB=コーチや解説者についても世代交代をしてもらおうという意図もあるのかもしれません。

また、今季は、新たな選手たちが活躍して、査定上も年俸アップが見込まれますが、元の年俸がそれほど高くないものと推定されるので、結果的には大幅アップとなっても、実質上はコストアップ要因としては最小限に食い止められることになります。

そして、今季活躍できなかったベテランに対しては大幅な減俸が可能になるので、そのトレード・オフ=行って来い効果によってトータルの費用を抑えることができるのです。

すなわち、今季は、球団史上初の2年連続最下位の危機に直面しているとはいえ、結果的には「増収増益」の実績が見込まれるので、監督=メーカーでいえば工場長に当たる役割を十分に果たしたという評価になるものと思われます。

後は、来季以降の他球団=ライバル企業とのシェア争いを制すること=最低限でもAクラス入りができれば、経営陣としては御の字ということになりそうですね。


もう1つは、「私のマーチン論」です。

これは、レアなエピソードです。

彼が、当時のNHK教育テレビの「基礎英語」という語学番組で紹介されたことは、きっとあまり知られていないと思います。

トーマス・ユージーン・マーティンは、中日ドラゴンズにやって来る前は、メジャーリーグ、当時は大リーグと呼ばれていた米国最上位リーグのワシントン・セネターズという弱小球団に入団したのがキャリアの最初であり、その時のあるエピソードがクイズとして英語で出題されたのです。

Q.
マーチン選手は、大リーグのワシントン・セネターズに入団した時にある快挙を達成したのですが、それは何だったでしょうか?

というクエスチョンに対するアンサーは?

A.
My first base hit was “A” homerun.

というものですので、ここで、英語が、

マイ ファースト 
ベースヒット ワズ 
“エイ” 
ホームラン 

すなわち、

私の最初の
ヒットは、
“なんと”、
ホームラン
だったのです。

と、本人の映像と声で答えが紹介され、単数形を表す冠詞“a”ではなくて、強調表現の“A=エイ”と発音するのがカッコよくて、今でも覚えているのでした。

マーチンは、1974年の中日ドラゴンズの20年振りのリーグ優勝に貢献した後に、最終的には、大洋ホエールズに移籍して、日本プロ野球選手としてのキャリアを終えたのでした。

トーマス・ユージーン・マーチン(Thomas Eugene Martin, 1947年1月12日 - )は、アメリカ合衆国・ジョージア州出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。

彼は、日本プロ野球時代の登録は、トーマス・マーチン、あるいは、トーマス・ジーン・マーチンと呼ばれていましたが、正式名称は、トーマス・ユージーン・マーチンThomas Eugene Martin )。

ただ、ミドルネームのEugeneをユージーンと日本人が読める人はほとんどいないということで、そのような通称で呼ばれていました。

しかし、1970年代当時、千葉の田舎から、ソニー製の高性能ラジオ「スカイセンサー500」で、遥か遠くの名古屋から放送されている「東海ラジオガッツナイター」を、雑音まみれながらも聴いて応援していた私にとっては、当時、ラジオ中継のエースアナウンサーだった犬飼俊久さんの、いつも選手をフルネームで紹介する名調子によって、彼が、本来は、トーマス・ユージーン・マーティンであったことを知ることができたのでした。

そして、彼のプロ野球選手としてのキャリアを確認したところ、大リーグ昇格時の初ヒットがホームランだったり、日本プロ野球でも、節目節目で印象に残るプレーをしていますね。

記録

NPB初記録
初出場
・初先発出場:1974年4月6日、対広島東洋カープ1回戦(中日スタヂアム)、4番・右翼手で先発出場

・初安打:同上、7回裏に安仁屋宗八から

・初本塁打・初打点:1974年4月7日、対広島東洋カープ2回戦(中日スタヂアム)、2回裏に外木場義郎からソロ

NPB節目の記録
100本塁打:1977年5月15日、対読売ジャイアンツ6回戦(ナゴヤ球場)、1回裏に小林繁から中越2ラン ※史上92人目(外国人選手12人目)

・150本塁打:1978年8月9日、対読売ジャイアンツ20回戦(ナゴヤ球場)、4回裏に小林繁から左中間へ2ラン ※史上12人目(外国人選手6人目)

それも、当時は一流と呼ばれる投手から、しかしお得意さんがいたようで、彼のここ一番での集中力には、やはり見るべきものがありましたね。

彼を、大リーグから降格された後に、マイナーリーグとされていたメキシカンリーグでは抜群の成績を収めていた実績に惚れ込み、ちょうど、当時の、大リーグの二軍である3Aクラスと同等であると称された日本プロ野球のレベルでは十分に通用すると判断して、当初は日本に来日してプレーすること=大リーグへの復帰の夢を諦めて“都落ち”することに難色を示していたマーチン選手を口説き落とすことに成功した、ウォーリー与那嶺要監督の彗眼を高く評価したいと思います。

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