見出し画像

電子音楽について(2024.07.05)

[ここからは1,000文字に含みません]
十六日目です。
珍しく外のカフェで書き込んでいます。東京駅ほど近く、丸善 丸の内本店3階のカフェ。
ここの凍らせたレモンを入れたレモンスカッシュが好きで、たまに来ては本を見がてら喉を潤しています。
そういえば総合本のフロアにあった拙著は、まだ平台(本棚の手前にある、表紙が見えるように置いてあるところ)に置いてくださっていました。初日に行った時より増えていたから、一度売れて注文してくださったのかな。だとしたらありがたい。
Amazonも便利でいいけれど、店頭でふと手に取られてその人のところに旅なんかしちゃったら素敵だなあ。


謎解き制作者としてこういうコピーはハッとさせられます。
ということは、謎解き制作に使っている能力をこういうクリエイティブに添加することもできるのでしょうか。謎にならない気づきなんて、それこそたくさんありますし。
[ここまでは1,000文字に含みません]


電子音楽について書いていく、よーいスタート。


DTM、デスクトップミュージックという言葉が市民権を得てどのくらいが経ったでしょうか。
少なくとも私が子供の時は、それこそPerfumeさんのエレクトリックな曲調が最新の、初期は最新すぎてメジャーにはなり切れないくらいの頃だったと記憶してします。確か初音ミクの台頭も同じくらいでしたっけ。少し後か。

そういえば私が好きな音楽は、大体が電子音楽な気がしたのです。
あまりピアノやギターといった、(そういう言葉があるのかは分かりませんが)自然的な音楽に興味を持つことは生きていてなくて。
むしろオートチューンがかかった、現実で再現の仕様がないような音が好きでした。

なんでだろうな、と改めて考えてみます。
小さい頃に一応ピアノを習っていた時期はあったのですが、なぜだかいつの間にかその時間は囲碁になり、水泳になり、合気道になり、デザインになりました。
それらはなんとなく自分の指に染み付いて、今も何かしらの感触を産んでくれているのですが、楽器に関してはそういうことの影がない気がします。

なぜかなと考えたとき、私は私の出す音にあまり興味がなかったのかなというところに行きつきました。
そこにたどり着いた所以は、私は自分の発する言葉にすごく重きを置いていることにハッと気づいたからです。ここで打っている文字もそうですし、毎晩あげている問題の下部の会話、日常の会話まで、自分の口や手から発される単語の集合体がもつ意味には、おそらく他の人から見たら異常なくらい選抜をしているように思います。(そういえば先日も友人から言われました。すごい怖がりじゃない?と聞かれて、そうだねえとしか返せなかった。それしか返せなくても一緒にいてくれるので私は彼が好きです)

そして、そのこだわりに比べて私は声や音にとっては本当に無頓着で、今こうして考えるまで目を向けた、いや耳を傾けたことがありませんでした。
私が自分の外質に対して好ましくないと思っていることが関係しているのかもとも思います。私は自分の見た目や声、体の動きがあまり好きではないし、なるべく見たくはないので、それに付随する自然的音楽からも自然と遠ざかっていたのかなあ。そういえば私の写真フォルダ、自分の写真もビデオも全然ない。このまま生が終わったら透明人間になれるかな。

そんな好みが転嫁されて、今の電子音楽好きにつながっているのかもしれません。
電子音楽の持つ「つくられた感じ」は私にとってとても心地がいいのです。顔とか声とかを通してではなく、血の通わない機械を魂に直で接続して、出てきた波を録音したみたいな、そんな感じ。
それがある意味救いな気がします。魂にいくら汚れがついていたとして、道具と場所さえ選べば、自分は魂だけの存在になれるような。
その世界でなっている音楽は今この世界で再現できないような響きをしているはずです。
それを聞いている私は、透明人間ですらなく
自由な幽霊になれている気がします。


(文字数:1203文字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?