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240610の日記

家族と昨年から手伝いにきてくれる友人含めて田植えをした。
子どもの頃は5月シーズンになると「家族」が険悪になり、本当に田んぼというものが大嫌いだった。
大人になってからも関わり合いたくなかったのに、なぜか昨年からわたしも積極的に関わる気持ちになった。
わたしの見てきた田んぼや農家や「よりあい」が今でもあるような集落ぐらしは、男社会そのもので、「女」として生まれた時点で「男はん」(子どもの頃に言われた言葉を使う)をたてなければいけなくて、その事になんの疑問も抱かずに、実家から出るまでの時間をほとんどそう過ごしていた。
ニコニコして、来客する方に にお辞儀をして、お茶をすぐにもってきて、住職がきたら正座して頭を下げて、最後までお見送りして、わたしってよく出来るでしょう!とさえ思っていた。

今、母が「父の代わりに」機械を動かしていることをご近所から「女やのにようやるなあ!」と言われていることにはモヤモヤしてしまう。
今の私たちのスタイルは母が中心に機械を動かし、父はその田んぼの脇でラジオを聞いて風が心地ええ〜などと言いながらのんびり過ごし、私たち姉妹と友人が母の指示を待ちながら動く。
このスタイルで田んぼと関わっていることが今とても心地よく感じている。
父、今日の帽子はISEKIの青キャップでなく JAの黒キャップが気分とのことでJAキャップを選んでいた。

水をいれているところ
水面の反射がきれい
昨年じぶんのためにつくったハンドメイド帽子
泥をおとしてる🌈

家の周辺を歩いているとたくさんの知っている人に出会う。
子供の頃よく遊んでもらった近所の年上の友だち。数年に1回ばったりと出会う。「誰かとおもった!」がもう合言葉のよう。ただし その人の姿がまったく変わらないのでわたしがみつけて「○○ちゃんんんん!!!」と歩み寄る。

古い集落とはいえ新しい住宅が建ったり無くなってしまう場所がある。

家の代わりにイチヂクが育っている場所の横を通る。
そのなくなった家の人々はもういない祖母が仲良かった。子どもの頃よく遊びに行った。
老夫婦が住んでいて 平成の真ん中なのにテレビはブラウン管だった。
そのブラウン管を叩いている姿もよく見た。
カレンダーは1980年代頃で止まっていて、それが不思議で 黒猫と白猫も住んでいた。
明治頃だと思われる(今思えば)着物を着た人が映ったセピア色の小さな遺影があった。
いつも誰?と聞いて「わたしたちのおかあさん」と言われ、「わたしたち」の意味が子どもながらに全く分からなかった。
2人はおなじ家に養子として出会って(記憶が曖昧だから母に確認した)きょうだいとして育てられたと聞いても当時ほんとうによくわからなかった。
ご夫婦がいなくなってから 息子さんがその場で死を選んだ。
息子さんは近くのわたしの親戚のアパートの住人で そのアパートの部屋のひとつに習い事で通っていた。
習い事の先生は親戚であり同級生のおばあちゃん。

老夫婦の家によく遊びに行っていたのは妹もまだ生まれていない頃で、その家へ一緒にいった祖母もいないからわたしだけの記憶になってしまった。

帰りの夜行バスでふたたび
あのサービスエリア
梅雨仕様になっている

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