『救われるか--受難の信仰』
地球規模で最大の危機下に生きている--。そう思える時があります。
まさしく「今」です。国内の景気、国外の 戦争激化也不況,食のきんなど枚挙にいとまがありません。
大げさに言えば文明が懐かける手前、文明と文明が衝突する手前。
つまり張りつめた「危機」が訪れる一歩、いや、 半歩手前なのかもしれません。
この状況下にあって、信仰は慈悲に満ちた心の栄養と なるのか--。この問いに直面すると、もぞもぞした、苦しい気持ちになります。
心の安らぎと思える信仰が他人の行動を決めてしまう。決められた行動に危うさがあると思えます。というのも、自分の意志が反映されないと思えるから。
「誰か」・「何か」が定めた行動規範が正しいと、答を求めてしまいます。追求した結果、単一の答を強要する社会になりかねない。
「正しさ」には脆さがあるのです。
とはいえ、信仰を否定するのは違う気がする。
信仰--。それは人びとの居場所と思えます。全否定するのは、居場所を奪う蛮行に映るのです。それは何だか、偉ぶっているどころか、人の行動を左右させているほかなりません。
否定はできないが、同時に危うさはらみもすると、二重性を抱くと、無力な気持ちになります。
自分軸をもち、叡智を絞り出し、衝突の激化--換言すれば、過去の過ち--を防げるか、試されている試金石なのかもしれません。
(了)
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