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「吹奏楽」は「アート」になりえるか?北海道教育大学スーパーウィンズの挑戦(渡郶謙一)

2020年8月、「北海道教育大学スーパーウィンズ」の定期演奏会ライブ音源が配信開始になりました。

この吹奏楽団を率いるのは、同大学准教授であり吹奏楽界のイノヴェーターある渡郶謙一(わたなべけんいち)さん。渡郶さんは「アカデミズムの上での新作の創造」「忘れ去られかけている作品の発掘」「他ジャンル作品の吹奏楽編曲による再生」の3本の柱を掲げ、この吹奏楽団の活動を通して、吹奏楽の世界に一石を投じる活動をつづけてきました。

渡郶さんの吹奏楽に対する、そして「北海道教育大学スーパーウィンズ」にこめる思いとは? 最新の2019年定期演奏会ライブ「アートになる吹奏楽」のプログラムノートに掲載された記事を公開いたします。

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今まで「吹奏楽がアートじゃなかった」わけではないけれど

 「アートになる吹奏楽」──このテーマを掲げてチラシを公開したところ、某ナヴィゲーターの作曲家氏がSNSで、「今まではアートじゃなかったのかな?」と呟いていました。ハイ、もちろんアートでした。いや、正確には「アートたるべく」進んで参りました。「北海道教育大学スーパーウィンズ」(以下SWと略)レパートリーのクリエイター達は高度な音楽基礎教育の積み上げの上に個性を花開かせた、現代作曲家の手練れたち。時流に流されず、洗練かつ精錬され尽くした作品、まさにアーティスティックな作品を演奏し続けることによってSWは大きく進化してきました。表面的な「ウケ」にはあえて背を向けて、先鋭的な路線をひた走り続け、「アートたるべく」努力を続けてきました。

 ところで、「アート」であるとはどういうことでしょう。大辞林によると、「特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品」、となっています。が、実はあまりピンときません。みなさん、おわかりになりますか?

 では、角度を変えて「アート」の対義語を考えてみましょう。「アート(芸術)」の対義語とは「ネイチャー(自然)」です。つまり、アートとは「人間の手になるもの、人工物」と定義することができます。ですが、まだなんだかモワっとしてますよね。アートとアートでないものとの違いがはっきりしませんね。

 いろいろ例えてみましょう。例えば建物。沖縄の首里城、京都の金閣寺、奈良の東大寺、熊本城、等の建造物。これらはすべてアートと言えます(皆災害に遭い、復旧再建させています。頑張れ沖縄!)。美術品では、モネの《水蓮》、レンブラントの《自画像》、ボッティチェリの《プリマヴェーラ》等ももちろんアートです。歌舞伎やお能・狂言も、もちろんアートです。あ、落語もそうですね。

 では、なぜ一般の住宅を、東京スカイツリーを、子どもの展覧会の絵を、を、ガンプラを、テレビのバラエティ番組を、私たちは「アート」と言わないのでしょう。前述の広義で見ればこれらもすべてアートだといえますが。そこにある違いは何でしょう。「カッケ―!!」とか「マニアック!!」とか「ボケと突っ込み面白すぎ!」とはいうでしょうけれど……。そこでは「美しい」と人間の心が感じるかどうか、そして時代の変遷を身にまとっているか、ということが重要な要素になるのではないかと思います。

 さて音楽に目を向けてみましょう。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、等、名だたる作曲家たちはみなアートであるとみなされています。なぜでしょう?クラシックだけがアート、だからでしょうか。そうとも限らないですよね。では、AKBは?EXILEは?きゃりーぱみゅぱみゅはどうなのでしょう。ん?美空ひばりはアートですねぇ、きっと。

 ここに興味深い話があります。2016年6月のニューズウィーク誌で、デヴィッド・ボウイーやプリンスと同世代の伝説的元祖へヴィーメタルバンド「キッス」のフロントマンであったジーン・シモンズが、現代に生きる音楽について語っています。

 ──ロックもラップもいずれ死ぬ。死んで欲しくはない。でも、ドゥワップは死んだ。フォークロックも死んだ。全ては過去のものになる。1958〜88年はプレスリー、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリクス、クイーンがいた。でも88年以降に新しいビートルズはいたか?ワン・ダイレクションのようなボーイ・バンドはいるし、ジャスティン・ビーヴァーやビヨンセなんかのポップ・ミュージックも元気だ。でもビートルズとはレヴェルが違う。

 すべてのものは進化しなければ、消滅する。ポップ音楽は驚異的だ。(セリーヌ・ディオンからケイティ・ペリーまでヒット作を量産してきたプロデューサーの)マックス・マーティンなんかは本当にすごい。レディー・ガガも大変な音楽的才能の持ち主だ。彼女は現代のジャニス・ジョプリンになれる。 でも、ジェニファー・ロペスやビヨンセのライブは、半分以上が事前に録音されている。そんなのいんちきだ。 

 食品だったら砂糖が50%といった成分表示がある。コンサートも『チケットの代金は150ドルです。音楽の50%以上は生演奏ではありません』と断るべきだろう。ファンに敬意を払うなら、最低限そのくらいの誠意を示すべきだ。 だから私はEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)が好きだ。生演奏のフリをしないからね。DJがボタンを押すだけだ。レーザー光線が飛び交い、みんな踊って楽しむ。嘘がなくて最高じゃないか。ポップ音楽はすごいが、それはプロデューサーたちのおかげで、アーティストは口パクやダンスでごまかしている。

──ニューズウィーク日本版「ロックもラップもいずれ死ぬ」2016年5月27日付(WEB)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/05/post-5185_2.php

 極めて毒舌な内容ですが、ポップやロックがアートとして生き残るためには何が必要なのかを示唆している素晴らしい文章だと思います。

「吹奏楽の旅」や「コンクールの課題曲」の功罪

 さて、ではなぜ「アートになる」と今回の定期演奏会にあたって声高に叫んでいるのでしょう。それは、私たちSWの吹奏楽が「アート」としての立場を確立する絶好のチャンスが、今まさに到来しようとしているのではないかと感じるからです。今の日本の吹奏楽が隆盛を極め、アートの方向から離れ、エンターテインメントの傾向を強めて発展しつつあることが、そのように感じさせしめています。

 十数年前に日本テレビ系列であの「吹奏楽の旅」が注目され、繰り返し続編が製作され好評を得たことが実は今の吹奏楽隆盛の遠因だと推測しています。その結果、多くの人たちに認識され、街々の吹奏楽の演奏会が記事になり、ヒットアニメのネタになり、コンクールの様子がテレビ中継され、有料でライブヴューイングされる。素晴らしく喜ばしいことと思います。そして、新しいレパートリーが年間に何十曲も生み出され、大小の出版社が活発に営業を展開し、一大産業になりつつあります。私が子供の頃、不遇だった吹奏楽環境から比べればまさに隔世の感であります。

 が、こういった環境の発展が結果的に、吹奏楽をアーティスティックな方向から遠ざけ、アーティスティックなレヴェルだけではなく、教育としての吹奏楽のレヴェル発展も明らかにスローダウンさせています。もしかしたら既に、文化としての発展の一つのピークに達したのかもしれません。象徴的に、需要の高さに象徴されるように耳あたり口当たりが良く、大向こうを張ることが第一義なものばかりが跳梁跋扈し、少子化による編成の多様化に対応するという名目で、実力に疑問符のつく人材による作品が粗製乱造されるようになってしまいました。

 コンクールの課題曲もその典型です。反面、世の中の趨勢というものを感じてもいます。こう言った、クウォリティーに問題のある作品は、いかに出版社が躍起になってセールス展開してもやはり、淘汰の流れには勝てず、「懐メロ」であったかのように忘れ去られていきます。近年はまたそのスピードが速まっているようにも感じます。


 そしてもう一つ世の常があります。こういったポピュラリティの多勢の中、淘汰の波をかいくぐり生き残った作品には、芸術的価値と普遍性が染み込み、世の多様性という砥石で磨かれ、世の中にその存在感を示していくものなのであろうということです。ビートルズが、落語や能狂言が、まさにそうではないでしょうか。

 観点を変えてみましょう。前述の通り、アートの対義語はネイチャーです。「人間の手で成し遂げる」ことがアートの基礎であれば、何かをやろうとするときに「あぁ、面倒くさい、楽な方向に、甘い方向に行こう」とするのがネイチャー、自然な人間の心の底の部分です。とすると、需要の高まりによって、多くの人の要望に表面的に寄り添う作品が生まれるのは世の常でありますが、これは進化ではなくむしろ退化です。それらの楽曲の群れの中から、真にアーティスティックなものが磨きだされ時代をリードしていくこともまた世の常です。まさに前述のジーン・シモンズの言う通りであります。進化のためのものはむしろ「甘くはない」ということなのです。「言うは易し、行うは難し」が、アートとネイチャーの境界線なのではないでしょうか。進歩進化は多様な文化の成熟の中から生まれ、磨かれていくのです。吹奏楽にとっていまがまさにその時なのではないでしょうか。

 ということは、今が正念場。スーパーウィンズの価値が花開くまであと一息です。あらためて、SWが吹奏楽におけるあるべきアート性という王道をひた走っていたことを再認識するため、今回があるのでした。

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北海道教育大学の定期演奏会(2019年12月)

「苦い、めんどくさい、難しい、わからない」は、進歩改善の必要条件

 ひょんな事から違う側面からあることに気が付きました。先日、NHKの某番組を「ボ〜ッと生きながら」見ておりましたところ、そこではたまたま「薬はなぜ苦いのか」、というお題を、相変わらず面白おかしく5歳のCGの女の子が説明をしていました。ここでの詳細は割愛しますが、要するに、「薬は苦くないと体に吸収されない」、「人間にとって、敵は、もしくは対抗するものは、苦い、と感じるよう進化してきた」、という内容でした。すなわち「苦い、めんどくさい、難しい、わからない」は、進歩改善の必要条件ということになります。このために私はスーパーウィンズを展開し続けているのだ、と快哉を叫びました。同時に、「苦味」として、甘々な楽曲にまみれてしまった日本の吹奏楽界に対する「薬」としての役割が、スーパーウィンズがこれまでプロデュースしてきた楽曲にあることに改めて気がついたのでした。

 これまで私は、スーパーウィンズのプロデュース作品には、人間成長とりわけ若い世代にとっての大事な栄養素を多分に含んでいる、と言い続けてきました。中には噛みごたえがありすぎるものや、食べ方すらすぐにはわからない楽曲も、まぁ、ありますが、一度口にしてみればどれだけ栄養に富んでいるかは明白です。誤解のないように申し上げますが、「口当たりや耳当たりの良い」、「人受けする事が最前面に出ている」作品が全て悪いというわけではありません。それはいつの時代にも存在して変化し続けるトレンドでありファッションであります。多様性が無くなり一元的になってしまった文化には、それ以上の発展はなく、あとは衰退するのみですから。ゆえに、私たちの展開している吹奏楽には「アート」の価値が備わったのではないか、と感じるのです。なぜなら、SWは現代の風潮とまさに対極にあるから、です。

 オーケストラの付随物扱いだった吹奏楽は、オケ全盛の19世紀20世紀を経て今、新たな展開のエポックを迎えています。クラシックのレパートリーを吸収し、ポップやジャズのファクターを身にまとい、柔軟な音楽需要に対応できる媒体に成長するに至っています。圧倒的なポピュラリティと、毒消しとも言える豊かな薬効と人間形成の栄養に満ちたSWレパートリーとの両輪で、これから新たな音楽ジャンルとして成長するのです。いまは吹奏楽界の傍道をひた走るSWレパートリーの持つアカデミズムが、倒れる寸前のハウルの動く城のごとく膨れ上がった日本の吹奏楽そして世界の吹奏楽の牽引役として、新たな一歩を進もうとしています。

(初出:北海道教育大学 スーパーウィンズ2019 「アートになる吹奏楽」2019年11月20日 プログラムノート)

●この記事の執筆者●
渡郶謙一 Ken-Ichi Watanabe
東京藝術大学音楽学部器楽科(ユーフォニアム専攻)卒業。国際ロータリー財団奨学生としてアメリカのメリーランド大学大学院留学。修士課程終了後、イーストマン音楽院博士課程進学。イーストマン・ウィンド・アンサンブルの首席奏者を務める。デンマーク王国政府奨学金を得てコペンハーゲンの王立アカデミーに日本人金管奏者として初めて留学。第4回レオナルド・ファルコーニ・ユーフォニアム・コンクール第1位受賞。ヤマハ吹奏楽団浜松名誉指揮者。北海道教育大学音楽文化専攻准教授。日本管楽芸術学会副会長。
●この記事に関連したアルバム●
「北海道教育大学スーパーウィンズ2019 - アートになる吹奏楽」
北海道教育大学スーパーウィンズ/渡郶謙一(指揮)
https://naxosjapan.lnk.to/Super-Winds2019ID

阿部俊祐: Le Grand
モーツァルト: アダージョとフーガ K.546(清水一徹編)
田村文生: 百頭女
山本裕之: ダンス救済計画
北爪道夫: 雲の変容
レーガー: BACHに基づく幻想曲とフーガ(田村文生編)
グレインジャー: ボニードゥーンの堤よ丘よ
フィルモア: ヒズ・オナー

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