見出し画像

1人の少女の精神的成長を描くだけじゃない…すばらしき映画『お引越し』を観る

俺が相米慎二を好きなことを知ってか知らずか、女の人から誘いがあって、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映されていた『お引越し』を観てきた。

10数年ぶりの観賞。改めて相米慎二の恐るべき才能に気付かされて、こう、書いていく。厳密にいえば、もともと書いていた文章のデータがクラッシュしてしまった怒りのままに、こう、書いていく。

さて。『お引越し』は、タイトルの字義通り、ある空間から別の空間に移る「お引越し」を描いた映画である、と同時に、“リミナリティ”な状態の少女の「お引越し」が表象される映画でもある。むしろ主なテーマとはそちらだ。

主人公の漆場レンコ(田畑智子)は、両親が別居することになった小学校高学年の女子。父・健一(中井貴一)と母・なずな(桜田淳子)の仲は冷え切っており、健一が明日引っ越すという話をする食卓から映画は始まる。レンコはその状況が何を意味するのかよく理解できないまま、いつも通りに楽しく過ごしていく。

しかし、友好的に振る舞いながらも非対称かつ厳格な規則を求める母親と、のんびりとした無関心を貫く父親の間で徐々にレンコの世界は引き裂かれる。

当時の社会において、離婚が社会的なスティグマであることを生物知りしているレンコは学校で、親の不仲をひた隠す。次第に友情関係は揺らぎ、学校でもつまはじき者のような扱いを受けていくレンコ。家族を元通りにしようとする彼女の試みもまた、どれもがうまくいかない。むしろ、努力すればするほど、彼女は自分自身の孤独を感じる結果に陥ってしまう。あれもだめ、これもだめ……そして、レンコが最後にとったのが、仲が良かった頃の家族旅行の再現だった。家からキャッシュカードを盗み出し、かつて家族で楽しい休暇を過ごした琵琶湖への旅行を予約する。しかし、ホテルのロビーで両親が顔を合わせても、幸せな仲直りは叶わず、願いは破綻。健一からは「一人で生きていきたい」と告げられ、レンコは街に飛び出し、祭を経て、琵琶湖畔の森へと足を踏み入れ……。

観客の視点を誘導する隠匿

物語の軸となる「離婚」ーーより広義な意味でいうと「離縁」ーーは創作でよく扱われるテーマといえる。しかし、それらを扱った作品の多くが、大人の関係が解けるセンチメンタルを描くのとはちがって、『お引越し』の場合は“一家の子供の目を通して状況を描く”という点に執心している。

たとえば、父母の離婚の理由は映画内で取り上げられないし、彼らの職業すら明らかにされない(推しはかるしかない)。いわば、観客は常にレンコの立場で物語を知覚することになる。

すると際立ってくるのが、レンコから見た「大人の世界」の理解しがたさだ。

最も如実にそれが表されるのが、健一からの要望を受けて、レンコがキリンのぬいぐるみを手渡そうとするシークエンスだ。手渡そうとしたそれを健一は受け取れず、ぬいぐるみはスローモーに階段を落下していく。「子ども」と「大人」のすれ違い・ズレをはっきりと示したこの瞬間に流れるオルゴールの音楽はクライマックス場面でも流れるものであり、レンコが感じる大人とのズレが、本作において重要なものとして扱われていることがわかる。

この子どもと大人のズレという明確な対置は物語上でも、構図においても常に有機的に効果を発揮し続ける。

1人の少女の精神的成長を描くだけでなく

情緒的なシーンが多い本作のなかでも、最も感動的なのは、記憶が超現実的に屈折したなかで描かれる、レンコが幻視した自身の肉体を抱きしめる一連の場面だろう。

抽象で本質を描こうと試みられる映画のラスト部では、レンコは「初潮」を迎え(たと思わせるショットを挟み)、松明だらけの「農耕祭」を通り抜け、長回しのトラッキング・ショットで世界が絶えず不安定に動いていることを明示したうえで、ヤマトタケル伝説の一部を再現する「船幸祭」の船(船自体は沖縄からのものらしい)が浮かぶ湖で、家族が楽しそうに遊ぶ姿を幻視する。やがて両親は彼女に背を向け、水中へと消えていき、レンコはかつての自身を抱きしめ、船幸祭の船に向かって「おめでとうございまーす!」と繰り返し言祝ぐ。

言うに及ばず、これは子どもの世界と大人の世界のズレを明確に知覚しながら、その境界をたゆたっていたレンコが“お引越し”したことを示すシークエンスである。

相米慎二は、自身では「なんでやらせてくれないのかな大人のものを」とごちりながらも、全13作の長編作品の大半でこうした少年少女の通過儀礼を描いてきたーー『台風クラブ』の水浸しになった校庭はなかでも美しい舞台ーー。が、本作における通過儀礼は、1人の少女の精神的成長を描くにとどまっていない点がとりわけ目立つ。

琵琶湖畔での大スペクタルは、単に一少女の通過儀礼を描くだけではなく、初潮、農耕祭、船幸祭、炎、水といったメタファーをもって、生と死、いわば、エロスとタナトスが入り混じった世界が表出されている。これまでの鮮やかな色彩の衣服とは違い、真っ白な服に身をまとった、どこか宗教的な雰囲気さえ感じさせるレンコの祝詞は生と死を繰り返してきた人類の営みの一部に含有される念仏のようでもある。

そうした超世界的な印象には、湖畔の森に入る前、レンコが道で謎に包まれた老人と出会う奇妙な一幕が寄与していることも書いておかなければならない。路地に“水”撒きをしていた老人はレンコを水で濡らしてしまい、その流れで老人宅で浴衣を借りて、長男の大好物というお菓子をごちそうになるという一連だが、その際の会話が独特だ。

「(長男は)どこにおるの」というレンコの問いに対して⽼⼈は上を指差し、それに対し、レンコが「二階か?」と問い直すと、「もっと上や、ずーっと、ずーっと上」と答えるのである。そして、レンコはどこか晴れやかともとれる表情で、天に向かって「いただきます」と元気良く言う。

そして、別れ際にレンコは「死んだらあかんで」と老人に声をかける。

映画の中でもどこか奇妙な雰囲気を持つこの一幕は、いわば死者が帰ってくる日本の盆独特のタナトスがまとわりついており、それがラストの炎と水のスペクタルで与える印象を下支えしているというわけだ。

なお「生と死」にレンコが接近するのは、この場面以外にももう一つあった。

漆場夫婦と仲の良いカップルが配置された理由

家族ぐるみで付き合っている、友人カップルの幸男(田中太郎)の彼女が妊娠しているものの、出産するかどうか迷っていることを覗き知る場面だ。

自身の家庭が作り変えられていくのを目の当たりにしながら、レンコは自分がなぜ生まれてきたのかを考え始め、親に捨てられるかもしれないという不安に駆られていることが淡々と暗示される。これもまたラストのカタルシスに大きく寄与している要素として忘れてはならないだろう。

そして、映画のラストカットは、中学校のものと思われる制服に身を包み、ーー笑顔でもなく、悲しげでもなくーー強い真剣な表情を浮かべたレンコの姿である。大人とのズレを知覚していた少女が、通過儀礼を経て大人に“お引越し”した。しかし、それが良いことなのかどうかを断定することはないといった具合に映画は幕を閉じる。

なお、祭りの夜にレンコがひとりさまようシークエンスは当初の脚本にはなかったものだったというから、改めて相米慎二のその恐るべき才能にたまげる次第。

鉤括弧つきの「商業映画」として、ここまで豊穣な意図が張り巡らされた作品を撮る……。相米慎二という監督は本当にとんでもない人間だったんだろう。今も存命であれば、いったいどんな作品を撮っていたのか……。いや、ハラスメントで訴えられたりしていたのか……。

「私に『タコ』『ガキンチョ』『娘っ子』とかいろいろムカつくことばかり言います」

「四条大橋から撮影が終わったら投げてやるぞ!と思ったことも何度もあります」

相米慎二についてそう語ったのは、『お引越し』でさまざまな新人女優賞を受賞した田畑智子だった。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?